この前の土曜日は、兵庫県立美術館でken-viセミナーが開催された。
コーディネーターを古山先生がされており、また内藤廣、西澤立衛という魅力的なプレゼンターがそろっていた。古山先生とはこんな機会でもなければ挨拶をする事が出来ないので、そういう意味でも貴重な機会。 テーマが「美術と建築の対話」ということなので、内藤、西澤両者ともに自作の美術館の話が中心にありつつも、話題の幅の触れ方が異なっていて面白かった。 内藤さんはのレクチャーは「美術と建築の不健全な関係」と題されており、どちらかというと制度としての美術館、もしくは建築とアートの関係について語られる。 まず、美術館というものは本来見世物小屋でしかなく、美しいものというよりはもっと理性を超えたところに訴えかけてくるモノを見せる場なのではないかということ。 さらには、近年の収蔵品を持たないギャラリーとしての美術館への懐疑。そうすると結局どうなるかというと、借り物の企画展ばかり→すべてに対応可能なニュートラルな空間という図式しか成り立たなくなる。それは、アート自体の流通可能性やマーケット性を強化する事にも繋がっていくのではないか。そうではなくmuseumはむしろ収蔵にこそ力を入れるべきであって、価値あるものを後世に伝えてくことを重視するべきだと。 建築とは社会的な存在であり、美術はもっとやむにやまれない個人の想いの結晶であって、反社会的なものであるべきである。デザインはhappyへしか向かわないが、アートは、痛さや苦しさを提示できる。だからこそ建築の持つ欺瞞や偽善を暴き、批判していく存在であるべきではないか。アートと建築は幸福な関係を持つというのではなく、アートという視点からたえず建築を批判的にとらえていくような関係性が重要ではないかであった。前衛の顔をした保守への懐疑。 その他に内藤さんのとてもナイスな発言は、質疑の時に近代建築の保存問題などにふれた折の「愛の強度」という言葉だろう。それは建物が物理的に丈夫かどうかではなく、多くの人にどれだけ愛されているのかというのが保存問題を考える上で最も重要ではないかという意味。建築家が本当に考えないといけないことを教えてくれているような気がした。 西澤さんはnaoshmaの美術館から森山邸、HouseA,十和田アートセンター、NewMuseumについての講演。ほぼ作品の解説の内容だったのだが、アートとの関連した内容を取り出すと、「環境」というキーワードがあったような気がする。それはecologyでなく、風景に近い意味での「環境」。環境としての美術館、展示室というものを目指している。noshimaでは輪郭をなくす事で「空間」を「環境」へと変容させている。空間たりえない、中性な場所性をもった空気、それが「環境」なのかもしれない。NewMuseumを写真で見た時、何か新しい展示空間が出来たんじゃないか思った記憶がある。新築という条件の中、ホワイトキューブやニュートラルな展示室におちいることなく、かといって記号性によって場所性がねつ造されるのでもない。それはホワイトなもしくは中性な場所性と言えるかもしれないと感じた。そういう感覚と環境というのは繋がるのかもしれない。 ■
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by shinichi-log
| 2008-06-30 18:29
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