KYOTO EXPERIMENTが今年も始まった。2年前、第一回のKEXにて快快やネジピジンさんなどに出会い、以来とても楽しみにしている京都のイベント。初日さっそくチェルフィッチュの「地面と床」を見に行く。先々月に大阪で「女優の魂」、昨年は福岡で「現在地」とみてきたが、今回の作品は近年岡田さんが試みてきた様々なことがある形となって、それもとんでもないものとして、結実しているように思えた。
現代的な能とでも言うべき音楽と演劇の融合は、「未だ生まれ来ぬもの」を思う母と「すでにその生を過ぎてしまったもの」としての母、「権利」と「義務」、賢者と愚者のコントラストを突きつけながらも、舞台上の「表現」によって解体され、しまいに判別が難しくなってしまう。 その表現、つまり内容ではなく形式についてである。形式と内容は連動して展開していくものだ。メッセージを伝えるにはふさわしい伝達方法が必要になる。内容は、時にクリシェと化してしまうが、その作用を異化させ、どこか別の次元へと導くのが「表現」であり、芸術のなせることの一つではなかろうか。本作はその表現の秀逸さにおいても特筆すべきクオリティを描き出している。 舞台には一枚の大きな床。各場でプロットは設定されているが、そこでの演者は、会話を交わしつつも、向き合うこと無く、それぞれの与えられた軌道上で別々の振る舞いを行なっている。その振る舞いはほとんど話しの内容と関係なかったり、なぜその動きなのか理解は出来ない。徹底的に意味を発生させることが拒絶されているように思えるし、同時に舞台全体にも安定した空間は現れず、分裂した個別的な空間が拮抗しながら、しかし美しく存在している。おそらく舞台設定という意味ではなく、意味は解体されただ「表現」のみが追求されているのではないだろうか?とはいえそれは、ナンセンスであるわけではなく、緻密にその演者同士のインターフェースがデザインされているがゆえに出現しているはずである。全体としてのプロットは共有しつつも、ベタな関係性を生み出さず、それぞれが無関係に振る舞いながらも、ある全体をなす。というのは、先に述べたこの作品が内容としてもっているメッセージそのものとも解釈できるのではないだろうか。 ともかく、これは傑作だと思った。 ■
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by shinichi-log
| 2013-09-30 11:54
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