先日大山崎山荘美術館で開催中の「睡蓮池のほとりにて モネと須田悦弘、伊藤存」を見に行った。
小規模ながら、美術館独自のコンテクストをうまく取り込んだ好企画だったように思う。特に伊藤存の作品は、昨年東京で観た作品に引き続き、非常にすばらしくみごたえもあった。今回始めて伊藤のスケッチなるものをみたが、極めて限定的な輪郭線、そこで起こってる事の流れのようなものを捉えようとしているように感じられ、そこから刺繍の作品のイメージの紡がれ方が連続的に捉えることができた。 先ほど美術館のコンテクストをと書いたが、それは以下の点において確認できる。 まず、伊藤の作品は単体ではなく、所蔵されているバーナードリーチやルーシーリーらの陶芸と一緒に展示されており、中にはインスタレーション的に配置されているものも存在していた。興味深いのは、刺繍も一種の工芸的表現であり、また後で述べる須田の木彫も純粋なアート表現というよりかは本来は工芸という文脈で語られる作品であることからも、工芸的な表現の射程というものを考えさせられることになる。 須田の作品は今回は、廊下などにさりげなく展示されるというよりかは、安藤忠雄の新館のモネの睡蓮の連作とが飾られている部屋の中央のスペースにちゃんと展示されている。こちらは、明確にモネの睡蓮との照応関係にあり、須田独自のハイパーリアルな木彫で睡蓮が作られている。モチーフを共にしてはいるが、むしろ、それゆえに際立っているのは両者の表現の違いだ。ともに刻々と変化する時間をある点でとどめているが、モネの中にはそれでもなお時間の重層性のようなものが見て取れるが、須田の方にはその感覚は皆無である。なんというか、写真でいえば、シャッター速度を1秒程でとったのと、超高速撮影したものとの違いのような。それは、おそらく2人の作家の世界に対する認識の、そして表現の違いであり、その対比が面白い。ちなみに、伊藤の作品は、美術館の庭の睡蓮を含むスケッチを重ねる中から生み出されている点で、睡蓮というコンテクストを共有しているが、須田のそれより幾分モネの表現に近いように感じる。そういう風に、3人の作家が相互に関係づけられて提示されることで、個別の表現が浮かび上がって来るという効果を生み出している。 ちなみに、美術館で購入できるパンフレットには、小説家福永信が作品から言葉を紡いだテキストが掲載されているのであわせて楽しむと言いかもしれない。さらなる重層的な関係性が見いだせるかもしれないから。 ■
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by shinichi-log
| 2010-01-14 03:33
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