人々の生活へとコミットするための伝統工芸
伝統産業の活性化をめざし、国際的視野とマーケティング力を兼ね備えた伝統産業の未来を担う若手職人の育成を目的とした取り組みが、京都府と京都リサーチパークによって進められている。「京都職人工房」と名付けられたこのプログラムは、受け継いできた伝統の技だけでなく、今後社会の中で生き残っていくための「知恵」を身につけることを重視したものだ。今回、このプログラムの一環として特別セミナーのコーディネートを行うことになり、ゲストに大学の先輩でもある建築家の乾陽亮さんを招き「伝統工芸に生活をパッケージする」というタイトルでお話をしていただいた。

そもそも建築家である乾さんが伝統工芸の世界と関わるようになったのは、地元堺の森本刃物製作所の仕事をwebで紹介する仕事に関わられたことがきっかけだった。もともとweb制作の仕事をされていたので、その後「凄腕職人街」という各伝統工芸の分野のなかでもトップクラスの職人方が行なわれている展示会のwebsiteをつくられたり、森本刃物製作所からの依頼でペーパーナイフの企画に関わられるなど、ここ数年深く伝統工芸の世界にコミットされてきた。また、日本の伝統的な技法である折型を現代の標準的な規格であるA4サイズで展開しインターネット上で配布するといった活動も独自に行われているなど、伝統工芸をどう現代の生活の中にアップデートするかといった視点で活動に取り組まれている。

熟練した職人の技にたいするリスペクととは裏腹に、伝統工芸そのものにたいしては非常にドライな考え方をもっておられ「手作り=いいもの」「伝統工芸=いいもの」といった考えはまず捨ててないといけないという話が全体のトーンになっていたようにおもう。その上で、なぜそれが消費者にとっていいのかをちゃんと考え、伝えていく事をしないと先は無いよと伝えられていた。これはどのような業界でも同じだと思うが、顧客のいないコミュニティ内での技の競い合いは「作れるから作った」が横行する。そうすると端から見るとなぜそれがすごいのかがよくわからない作品が出来上がり、結果売れのこっていく。だからここで重要なのはいかにそれを使う人の生活にコミットできるのかを考える事になるという事であった。

私自身知らなかったので驚いたのは、熟練した職人が作る事で、駆け出しの職人によるよりも安価に製品を提供できるという事実だった。イメージ的にはその逆のように思えるが、実際は最終の品質は一定してるので、ある時間でどれだけの数を作れるかが値段を決める要素になってくる。なのでより素早く均質な製品を作り出すことできる職人が取り組む事で最終製品の価格を下げる事ができる。美術工芸とは異なり、いかに単価をさげ普及させていくのかという「産業」として伝統工芸は考えないといけないので、そうした価格設定になるらしい。ようは「伝統工芸=機械化に失敗した産業」なのだ。昔は手作りだったものも機械化できたものは機械化され、より安価で私たちの生活に提供されるようになったが、現在まで伝統工芸として残っているものは、手でしか製造できない品質を作り出す技術ということができる。その手でしか製造できないという事がどう生活に貢献していくのかという観点から製品を生み出していかなければならない。言いかえると、どのような生活を提供するかを製品に持ち込む事がより重要になっている。

最後に、乾さんが伝統工芸に関わられた凄腕職人街のwebsiteは、関係する職人さんへの取材、インタビューを含む非常に丁寧な仕事となっている。そして注目に値するのがそれがすべてボランティアで行われているということだ。また、先に書いた折型も誰かに依頼される事無く始められていたのが、のちに製品化される事になるなど、まずは仕事としてではなくプロジェクト化する事が、周囲との関係性の構築を促進させ、後の展開につながっている。こうしていったん自らをヴァルネラブルな状態にすることの重要性を改めて気づかされた会でもあった。
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# by shinichi-log | 2012-12-03 00:54 | daily | Comments(0)
「らしさ」の魅惑と新しい形式
久々の更新。
FB始めたらちょっとしたことはそっとに書いてしまってたので。

飯田善彦氏のレクチャーを聞きに、はじめて草津の立命大のキャンパスを訪れた。飯田さんと言えば正直なところ関西ではあまりなじみの無いように感じるが、現在新京都府立資料館の設計や、龍谷大学の広場のデザインや新校舎の設計に携わるなど関西で活躍されている。で、その京都事務所がradlab.の近所ということもあり、かつ自宅が府立資料館から徒歩5分以内というところに住んでいるという事で、一度お話伺ってみたいと思っていた。特に資料館に関しては建築関係者というよりは一近隣住民として抱いている違和感の正体を直接聞いてみたいと思ったからだ。

さて、少し遅れてしまたので最初の東北のプロジェクトは聞きそびれてしまったのだが、飯田氏も今回の震災に非常に大きな衝撃を受けたとの事だった。(さて、個人的に今回の震災はその甚大な被害という点では衝撃的であったが、その後の状況については、それまで感じていた日本の現実、問題がただただものすごく鮮やかに表面化しただけで特に驚きはしなかったしショックも無かった。むしろやはりそうかという感じだったのだが、これは世代差なのだろうか、それとも個人差なのだろうか?)ともかく、そう言う前置きがあった(らしい)。

豪雪地帯にすむ一人暮らしのおばあさんの住宅は、雪かきという負担を住宅が解決することで暮らし続ける事ができる環境を作り出すというもので非常に優れた提案だと感じた。その結果で来てきた建築は平屋のそして屋根がコの字型のスロープになっているもので側溝の水を屋根にながすことで雪を溶かすという仕組みになっている。そのため独自の建築の形式が与えられているが、それが非常に汎用性の高いものである事が素晴らしい。


また、横浜の分譲住宅のプロジェクトでは、横浜市そして、大学、建設会社、設計が組んで、環境性能を検証するという事業が組み込まれているものであるが、ミソは敷地を販売するのではなく定期借地にすることで、敷地内に十分なオープンスペースを設けている事にあり、かつそのスペースによって家全体で風が生み出され快適な環境が生み出されるという試みがなされている。そうした所有ではなく共有することのよさを認識していく事が重要でないかという話しは非常に納得できる。学生からの質疑で、重要なのは「快適性」をどう定義するのかということだとおっしゃられていたが、まさにここには一つの快適性が、その計画や場所によって生まれた形式性とともに提示されている。


さて、新京都府資料館について。先ほども書いたように近隣住民という立場で非常に気になっていたプロジェクトである。気になっていた点は2点あって、一つは住民説明が殆どないこと。(あくまでもこれは京都府側の問題という事も言えるが、ただそんな事言ってるだけじゃ)京都では新聞くらいには一度載ったんだろうけど、殆ど話題になっていない。おそらくある日突然工事が始まって、きづいたら巨大な建物が出来上がっていて、何これってなりそうで怖い。「発注者の求める範囲で作られているものは、時代の移り変わりの中で無用なものになっていくという」テキストを書かれている飯田氏がこの状況をどう思っているのだろうか。すくなくとも、これは震災後に露呈した公共性の問題に直結するし、建築家が応えるべき領域だと思われる。さきほどの住宅のように、ある一人の個人(の身体性)から出発している場合、そして複数の住み手を想定している場合の語り口が、不特定多数の誰かになったことで消滅し、後に述べるような都市構造や心象風景としての大屋根が持ち出されてくる。

もう一点は、そうしてもちだされた「都市構造や心象風景としての大屋根」が果たして、この北山という場所に固有の建築のあり方なのだろうかという疑問がある。飯田氏のプレゼンによるとこの新資料館は、一見するとたくさんの町家が集まっているかのようだが実は大屋根をイメージしているとのことである。この一見すると京都らしさを上手く取り込んだ奇形の勾配屋根は正解のように見える。しかしながら、敷地は北山という戦後に開発された都市空間であって、その隣に建っているのは磯崎新による90年代の建築、その横には「純粋」な近代建築、さらに安藤忠雄の建築や、今や数は減ってしまったが高松伸の建築など、モダンな都市空間なのであって、けして祇園や中京のような歴史都市京都ではない。植物園ももとは明治以降の博覧会会場だし、周囲の住宅も戦後の良質なモダン建築が多い。そのような場所にあって、京都らしい大屋根というのはクリシェ以外の何ものでもない。もちろん景観条例によって勾配屋根が義務づけられているとはいえ、周囲には優れた回答例も存在している。この京都らしさという事が、ここ北山という地にあっては違和感になっている。京都としう減大都市の多義性をいかに受け止め得るのか。また、少し辛口になってしまうが、京都の歴史的空間構造を平面構成に取り込んでいる、という説明も京都で課題をやった事のある学生であれば一度は持ち込むロジックではないか。しかもここは先に書いたように明治以前は都市ではなかった「洛外」なのであって洛中のロジックがそのまま通用するのかという疑問は残る。こういったロジックはでっち上げなのだからと開き直ったところには、信用を失う建築家という図式が待っている。

ということは直接質問したかったが、新幹線の時間という事で質疑の時間が無くて残念だった。やはり当事者として見る目は少しきつくなるということで、失礼にも色々書いたが今度直接お話しにいきたいと思う。

最後に、飯田氏が横浜で始められたLibrary Cafeの話しをされた。事務所の本と珈琲と抹茶と中国茶というささやかなスペースながら予想以上に多様な広がりをコのスペースが生み出しているというお話だ。もちろん横浜という場所のポテンシャルもあったであろうが、公共にひらくということを自ら体現して実践しておられる姿はとても共感できるものだった。また特に、十日市場の分譲住宅の試みは非常に興味深いものがあって、調査の結果や共有地の活用のされかた(誰がどのように管理しているのかなど気になるところではある)をふくめて今後きちんと発表されていく事を期待したい。

さて、この立命館でのレクチャー、次回はAECOMのオウミ・アキさん。私も全然詳しくはないのだが、この会社はロンドンオリンピックパークのマスタープランなど、建築・設計・コンサルティングを提供する世界でも主要な総合エンジニアリング企業ということで非常に興味深い。12/5、18時からとのことで時間ある人は是非聞きにいかれれると良いのではないだろうか
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# by shinichi-log | 2012-11-09 01:25 | Lecture log | Comments(0)
Archizinesの打ち合わせ
9月開催に向けて準備中の「Archizines Osaka / Tokyo」の打ち合わせのために東京。
特別企画のアーキテクトジン出展予定の建築家の方と、制作物の方向性を確認する。みなさんの独特の建築観や活動がそれぞれのZineの中にどのように表現されていくのか。これもZineだからこその自由さとダイレクトさだからこそ可能なものか。

そのほか今回は、会場構成をSpaceourselvesでも出展していただいた建築家の元木大輔さんに、グラフィック関係をパリのKAでもお世話になった飯田さんにお願いしている。元木さんは普段空間より家具の発表が多いので、彼の手がけた展示空間をみることができるのは個人的にとても楽しみ。

まだまだ懸案事項は山盛りなのだけれど、残り一ヶ月を切ってますます面白さを増しているArchizinesです。乞うご期待。 http://www.archizines-osaka-tokyo.com にて随時情報公開していきます。

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# by shinichi-log | 2012-08-02 10:21 | daily | Comments(0)
プロジェクト大見新村について
京都市左京区、三千院で有名な大原のさらに北西の山の中に「大見」というほぼ廃村がある。今この村を、「新村」として一から考え直し、10年後に10世帯程の村として成立させるための仕組みつくりのプロジェクトに参加している。これは、昨年私が所属していた財団法人の同僚で、その村にたった1人で住む藤井さんから、村にお客さんが来た時に使えるトイレを作ってくれという話しをもらったのがきっかけで始まった。藤井さんの思いは再び大見という村が再び集落としてよみがえるという事であったので、トイレだけでなく、これは新村計画として、村つくりとして考えてみようというのが趣旨である。
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website

廃村といえど、北山の我が家からくるまで60分の位置にある大見の可能性について考える事は、同じような都市近郊の集落の今後のあり方を探る事にもなりそうだ。そもそも人口減少、高齢化といった問題を抱える集落に関わる時の大きな障壁は、地元のしがらみ。よそ者として微妙なハンドリングが求められる。その点、大見はすでに定住世帯がおらず、とはいえ全く放棄されているわけではないので、一般的な問題を引き継ぎつつも、ある程度ゆるやかな条件のもと取り組みが進められる。

とはいえ、正直これまで農村に興味があったわけではない。場所によっては、限界集落を段階的に廃村させていくべきだとも思っている。ただ長い時間をかけて作られてきた風景や集落が全てなくなるというのはもったいないし、治水、獣害などの面で問題も多いだろうから、適切に管理しつつ、残せるところは残していく方法をちゃんと考えることは大事だなと思う訳だ。車で60分で市街地にいけるのであれば、山間の集落で自然のサイクルのなかで生活していきたいと思う人は少なくないはず。

個人的に、高度の集積した都市部とは違い農村のように分散して存在する集落は、インフラという側面においてある程度自立的な仕組みをもっていた方が、全体として効率がよいのではないかと思うところがある。例えば、比較的導入が簡単とされている小水力発電や、循環型のコンポストトイレ、薪をつかった暖房システムなどをうまく組み合わせつつ、最小限必要な道路や通信などは公共インフラにたよる。いわゆるパーマカルチャーに近い考え方ではあるが、理念的な部分ではなく、実利的にうまくいきそうな部分を上手く利用するというふうに考えていきたい。

その他、農業再生を目的としていないので、都市近郊におけるあたらしい働き方、産業について考えることになると思う。昔、大見は炭つくりを生業としていたらしいが、現在では炭は昔のようにモノを燃やすため以外にも、ろ過や脱臭材として利用されるようになっているので、新しい文脈の製品として考えれるかもしれないし、大きな音を出す事も可能なので、木工などの作業場を併設した住居などをつくるというのも考える事のできそうな選択肢だろう。もちろん藤井さんのつくるおいしい有機野菜も一つの売りになるだろうから、木工の直売所、有機野菜のレストラン、循環型の生活が学べる仕組みなどが組み合わせ、街から人を呼ぶ仕組みもつくれないだろうか。

現実には、多くの空家が存在しているが、年に一度だけ持ち主が戻ってくるだとか、人に貸す事への抵抗があるということで、住む場所を提供する方法を考えないといけない。例えば、市が管理している空き地に村の暮らしに特化した共同住宅のようなものを建設など。

以上、あくまで、プロジェクトに参加している私の個人的なコメントではありますがプロジェクトの紹介。

で、現在この「大見新村」プロジェクトメンバー募集中。
これまでハードル高そうだなと思って農村とか関わってないけど、農業や狩猟に興味ある、田舎暮らしについて考えたい、循環型エネルギーとか考えたい、古民家の修復したい、とか思っている人はぜひ。
http://www.oomi-shinson.net
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# by shinichi-log | 2012-07-01 12:08 | daily | Comments(0)
QC3のナデガタインスタントパーティへのインタビューにあたって
QC3では9回目としてアートユニットであるNadegata Instant Partyへインタビューを行なっている。Nadegata Instant Partyとは2年前偶然メンバーの山城君に京都で出会った事に単を発する。同世代の彼とはなんだか初対面じゃないような親しみを感じていた(彼のコミュニケーション能力がそもそも高いだけかもしれない)が、それ以降ナデガタの名前は時々耳にすることはあれど、絶妙にすれ違いを重ねていた(共通の知り合いは多いらしい)。昨年QC3をタウンとアーキテクトというテーマで行なうようなり、彼らの「ど真ん中センター」という洋裁学校を期間限定の公民館として運営するというプロジェクトを知って一度話しを聞きたいなと思っていたが、随分と会っていないし覚えてないかななどと弱気な感じでコンタクトとらずにながく放置していた。機が熟すとはよく言ったもので、意を決して山城君にメールを送ってみたが、その同じ日に全く偶然的に同じナデガタメンバーの中崎さんと電話で話すという事があっり、その絶妙のタイミングにかなり驚いた。

さて、Nadegata Instant Partyとはかなり変わった名前である。Instant Partyのほうは「即席の集まり」とうような意味で、もしくは即席のパーティーでもいいがイメージできるが、なぜNadegataか。特に深い意味は無いようで、ひょんな事からユニットを組むようになった3人に共通する人当たりのよさみたいなものを体現しているらしい。結成当時のいきさつなどはインタビュー本文を読んでもらえれば分かると思うので割愛する。

さて、今回なぜ彼らにQCとしてインタビューしたいと思ったのか。その最初のきっかけは先ほど書いた「ど真ん中センター」というプロジェクトを知ってのことだったが、その上で彼らがコミュニティ活性化や地域おこしということの成り立ちを意識的に利用しながら作品をつくっているのではと感じたからだ。近年全国で様々な主体が種々多様な地域活性化やコミュニティデザインの取り組みを行っているけれど、その成果の可否や、倫理的側面(如何によい事をしているか)、その社会的意義、取り組みの中でのエピソードが取り上げられる事はあるが、ナデガタはいうなればそれらをメタにとらえて、そこで起っている出来事の構造自体を作品化しているのではと思ったからだ。

彼らは、様々なシチュエーションでユーモアと愛にあふれる「口実」をつくりだすことで、その場の人々をある出来事に巻き込んでいく。たとえば、天井からぶら下がっているバナナを取る、そのために床をあげてしまうなど。なぜバナナを取るのかとか、他にももっといい方法があるということは問題ではない。その目的を口実に一定の期間、ある場所で、様々な人がその口実のもと恊働してしまうことが重要なわけである。でもそれがとても楽しい。関わってしまった人たちは根拠がよくわからなくともその目的に向かって突き進む。それは騙しているとかそういうことではなく、それで上手く回ってしまうという事が重要なのではないか。もしかしたら実は世の中もそのような「口実」によってつくられている事で上手く回っているのだと考える事ができるかもしれない。


個人的にナデガタの作品は、「神話」や「言い伝え」のそれに似ているのではないかと感じている。あまり信心深い方ではないのであまりそうした類いの話しを信じている訳ではないが、例えば地域のお祭りなどは「神話」や「言い伝え」を口実に実施されることで共同体の絆を強め、コミュニティを維持させる役割を担っている。もしかしたら昔はちゃんと目的や意味を担っていたかもしれないが、その多くは現代においては失効している。いうなれば、「神話」や「言い伝え」の真偽や正当性よりも、それを口実とした出来事のほうが重要なものとなっている。よく行政や修行施設が実施するお祭りやイベントは、往々にして明確な目的や目標(賑わい創出、売り上げアップなどなど)のもとに人が集められ賑やかさを作り出している。手段と目的という垂直的な関係は、時に恩着せがましさや窮屈さそれにともなう白々しい感じを生み出してしまうのではないか。だからそうしたイベントは持続性が無い。常に存在自体の根拠が問われる。それに対して、口実化された目的のもとに行われる出来事は、その根拠がとわれること無く存在している。というかその設問自体がナンセンスなのだ。そもそもコミュニティの存在の根拠を問うということ自体がナンセンスな設問なのではないだろうか。既にそこにあるものであるはずなのだから。


しかしながら現在ではその存在の根拠を必要とする場面が多く存在するようになった。地縁や血縁、言い伝えなどの伝統を共有する事の無い「郊外」や都心のタワーマンションなどでは、その内部で新たにコミュニティを生み出す事が必要になってくる。そこで求められているのは、合理的で根拠があきらかで、明白な目的をもったイベントではなく、もしかしたら根拠も目的も明確ではないが、人々を根拠無しに巻き込むだけの力を持った「口実」なのかもしれない。そうした、地域の中でのコミュニティを立ち上げようとする上でのエッセンスをナデガタの作品から見て取れるかもしれない。


もう一点、彼らの活動に注目した理由がある。それはインタビューのタイトルにもなっているように、「いかに出来事を作品化するか」という点だ。彼らはあくまでアーティストとしてプロジェクトを「作品」として残す事を考えている。けれどもこれがかなり難しい。出来事はある場所と時間をもった「ライブ」なものであるから、それをそのまま展覧会として見せることはできない。それは必然的に「アーカイブ」という形をとってしまう。QCでも何名かの建築家の方を取り上げているが、彼らの地域での活動はこれまでの建築作品のフォーマットの域を超えており、そうした出来事としてのモノをどのように作品として、社会に向けてプレゼンテーションしていくのか、という問題に直結すると思っている。いうなれば、作品という概念に時間軸が入ってきた時に、そのプロセスそのものを提示する事が可能か、不可能であればどうするのかということを考えないと行けない。さらに言えば、すでに建築というメディアが、展示という困難さを含み込んでいる。なぜなら建築の経験はあくまでもその場に身を置くというライブなものでしかありえないとされているが、展示においてそのライブ性は失われてしまい「アーカイブ」を展示するよりほかないからである。それに対してインスタレーションや1/1と言われる建築作品が試みられることがあるのだけれど。とはいえそれらも含め何を作品として展示できるのだろうか、という問いは常にある。個人的に今後建築が文化的なものとして社会的に認知されていくためには、美術という制度の積極的な利用をすべきだ思うのだ、インタビューのなかでも答えてもらっているようにランドアート以降のコンセプチャルアートからインスタレーションにいたる作品化の理論を学ぶ事はひとつ重要ではないかと感じている。という事だけでなく、もっと幅広くナデガタが出来事を作品化する上で考えている事は、建築家の活動のフィールドが広がった時に、では「なに」を「どう」作品と名付けるのか?という問いに対するよきヒントになるのではないか。


上記は個人的なナデガタの作品にたいする興味と関心のあり方で、インタビューではもっと幅広く語ってもらっている。ぜひ一読下さい。

http://qc-3.blogspot.jp/
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# by shinichi-log | 2012-06-15 22:32 | daily | Comments(0)
launch new oomi
新しいプロジェクトが始動する。プロジェクト名は「New Oomi」。
京都市内にある廃村寸前の村「大見」を、単なる活性化ではなく、現代にふさわしい新しい村として再生することを目指しながら、農村の抱える問題について考え、またこれからの都市近郊農村のあり方を探っていく。目標は10年後に10世帯の村へと成長させること。昨日、区から交付金をいただける事になり最初の一歩が踏み出せそうです。

現在大見は、左京区から車で約一時間。現在はプロジェクトのリーダーである藤井さんが唯一の定住者として農業をおこなっている。(正確には日中畑仕事をしたり、週末だけ滞在する土地の人はいる。)

これといった産業も無く、知恵袋となる老人がいるわけでもないが、だからこそ0から色々な試みができるのではないかと期待している。別に農業をやらなくても工房を構えて作品制作を行なってもいいし、市内までそれほど距離も無くデザイン関係でも仕事は可能なように思われる。また、食料やエネルギーの自給についても可能性をこれからじっくり探っていきたい。

まずは、数十年前に建てられたという小屋を整備し循環型のトイレを建設することで活動の拠点を確保する。RADの処女作はトイレ建築になりそう笑

近々一緒に大見新村計画を進めてくれるチームメンバーを募集予定。
興味あるかたはぜひ。

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大見にて、藤井さん
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# by shinichi-log | 2012-06-12 09:34 | daily | Comments(0)
403 architecture dajiba - 地方都市のブリコラージュ
新建築2月号にて403architecture dajiba(以下403dajiba)がこれまで浜松で関わってきた作品が掲載されている。403 architecture dajibaは、彌田徹+辻琢磨+橋本健史の3人からなる設計事務所で2011年から浜松を拠点に活動している。彼らは横浜国立大学YGSAに在籍していた時から403 architectureという団体を他2名のメンバーと共に結成し、大学での学びを自分たちの身の回りの都市空間へと落とし込む実践をインスタレーションや展示設計などを通して行なってきた。通常であれば、そのまま学生時代に築いた横浜や東京でのネットワークを生かして活動を展開するところ、浜松という地方都市を戦略的に選択することで、今の時代にアクチュアルな「建築(家)と都市」のスキームを見いだそうとしている。

More
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# by shinichi-log | 2012-03-30 18:00 | Comments(0)
福岡にて。
先日福岡にいってきました。
これまでなんどか長崎には行ったことがあったのですが今回は初、福岡でした。
前日の21時半のバスに乗り込み、朝8時着のその日の夜22時初のバスという弾丸出張でしたが、天気もよく、またテトラの小山さんの名ガイドにより大変充実した滞在になりました。
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今回は、つい先日福岡の平尾にできたFUCA(Fukuoka Urban Community of Art)の1階イベントスペースを会場に、約一ヶ月間福岡市のリサーチを行なおうという企画の調査、打ち合わせ。
「RESEARCH STORE」というのがプロジェクト名になっていて、このFUCAを拠点にマクロ/ミクロの様々なリサーチ(イベント含む)を期間内に実施して、その記録を貯めていく(ストア)していくというイメージです。そして、単にあるジャンルの人だけが関心のあるではなく、街全体が共有しているSocial Issueを発見することを目的にしています。
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福岡は不思議なことに、これぞという街並、都市景観が見いだしにくいというのが印象でした。とはいえ、街中に公園含むオープンスペースも多く、中心街近傍に複数のクリエイティブスペースが点在しており、そのあたりは非常にうらやましい環境でした。


そして、平尾周辺は小さないい感じのお店が増えてきている良い感じのエリアで、街の周辺部が面白い街に生まれ変わりつつある気配を感じさせてくれる場所です。

さてさて、正式リリースはもう少し先になりますが、もし4月中旬から5月中旬にかけて、一緒に福岡の都市リサーチに参加してくれる人がいましたら、学生、社会人とはず連絡お待ちしています。
また、こんな面白い日といるよ!とか友達がこんな変なことしてるとか!の情報も募集中です。
よろしくお願いします。
連絡先:info@radlab.info
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# by shinichi-log | 2012-03-30 11:05 | daily | Comments(0)
《終了!!》同居人、募集。
無事、入居者きまりました!
お問い合わせくださったみなさまありがとうございます。



******

三寒四温。徐々に春らしくなってきました。

さて、長年空き室になっていたはなれの2階の2部屋の住人を募集します。いわゆるシェアハウスです。母屋が共有部、はなれが個室、少し古いですが昔ながらの雰囲気がよいかんじです。アクセスもよく四条まで自転車で20分、最寄り駅へも徒歩10分です。京都府立大学、京都工芸繊維大学、ノートルダム女子大学へはすぐです。母屋の2階はゲストルームになっており急なお客さんにも対応できます。また、日本各地、海外からのお客さんが滞在される事も多く、思わぬ出会いもあるかもしれません。4月からの入居募集ですが、時期は相談にのります。

個室面積:9㎡
共用部面積:約60㎡(ラウンジ、ダイニング、キッチン、トイレ、洗面所、風呂、洗濯機、冷蔵庫、庭、自転車置き場、ゲストルーム、ほか)
- 私を入れて合計4人のシェアハウスになる予定。

- 大家の都合により(男性)限定

家賃・22,000円+共益費・4000円
保証金・家賃2ヶ月分

住所・京都市左京区下鴨北園町
アクセス・地下鉄松ヶ崎駅or北山駅徒歩10分 ・市バス北園町徒歩2分

見学、問い合わせはこちらまで。。。
連絡先:shinkawakatsu@gmail.com

・個室
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・キッチン
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・庭(奥がはなれ)
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・ダイニング
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# by shinichi-log | 2012-03-15 17:04 | 告知 | Comments(0)
0地点からの
建築の展覧会のもつ役割とは何だろうか?
今回の展覧会の準備を進める中で感じた事は、予算や敷地、その他の社会情勢、クライアントの好みなど様々な条件によって規定される実施プロジェクトでなく、展覧会ではその人の建築的思考を純粋に見せる事が心がけられる。おそらくそこで試みられる事は、普段の建築の中に現れでている何かに違いない。けれども、その成立する条件の違いによって全く見え方が変わっている。思考というある種概念的なものを見せるには、できうる限り現実のノイズが取り払われた状況を用意する必要があるのだ。だから、建築の展覧会で行なわれるべきは、この「0地点」とでもいうべき状況をまず設定することではないか。それは実際の展示空間の整備に始まり、建築家の頭の中から普段設計において必然的に考慮に入れざるを得ない諸条件を取り除く事、そして作品制作においては「0地点」を演出するためのディテールの改良などにおよぶ作業である。そうして、科学の実験室で世界のモデルとなりうる現象や理論が実験によって実証されていくように、展示空間という「0地点」において建築を成り立たすということは、この各建築家の建築的思考=世界モデルの課程を実証する場という事ができるのではないだろうか?

追記
模型において構成要素となるものには縮尺が与えられても、そこに作られる(作り出そうとしている)空間は1/1であらわれるから意味があるんじゃないかな。実際の住宅とかの建物になると1/1なんて言わないのに、展覧会でのインスタレーションなんかになると1/1ってあえて言うのもなんか変。1/1といえども「建物」でない以上それは大きな模型以上の意味合いを持っていないという事なのかな〜。となると、重要になるのは体験の「らしさ」にいかに近づくかということになってくるのか。であれば、別に何分の一の表現でもやりようによっては「らしさ」に近づけるだろうし、となるとやっぱり空間は1/1でしか現れないってことに話しが繋がってくるのか。
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# by shinichi-log | 2012-02-29 02:37 | Comments(0)
京都会館、再訪
再訪といっても、もう何十と足を運んでいる建築。けれども今日は改めていっこの建築の魅力を再認識したという意味で再訪というべきものだった。それはおそらく外国人のアテンドという役目で、それゆえ他人の目を通してということも理由としてあるのだろう。
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ということで、今日気付いた事をメモしておきたい。
・まず、立て替えが問題となっている第一ホール。現在のホールの台形の屋根ボリュームは中庭から見ると三角形に見え、そこから日本的な特徴をもつ庇のデザインとあいまって、日本のお寺の大屋根のように見えてきて、印象的なエレベーションを作り出す。そうなると庇より下の柱梁の構成が木造建築のような軽やかさをどんどん際立たせていく。普段は昼間のガラスが不透明な状況でみていたのだが今日は夕景でガラスも透明性の高い状態でより強調されていたように思う。また、一般的に隣の和風のコンクリート建て美術館別館は、評価が低く、正直ないほうがいいのではないかと思わせられる事もあるが、京都会館の意匠との対比という意味では大変意味のあるモノに感じられた。よって、今回の提示されている改修案での中庭側のガラスの箱は、上述の近代建築と日本的空間構成というコンセプトからを大きく損なってしまうのではないか?それは、致命的に建築の持つ価値=その建築が実現しようとした理念(それは否定された訳でも、時代遅れになった訳でもない)を損なってしまうに違いない。
・ピロティの床のペーブメントがホール一階と同じということも知ってはいたが実感として再認識。内部的な外部として扱われている事が明確に、と同時にホール一階が外部的な内部として考えられている。これは先日のこのピロティでのピクニックの時に感じた内包される感じを作り出している考え方であるように思われる。
・ホールのエントランスが1Fにあることによって表現される平等な市民社会という理念。まさに建築に理念を感じた瞬間。人がすーと地続きにホールに吸い込まれていく。非日常へ誘う豪勢なアプローチではなくあくまで親しみさるそぶりで人を招き入れている。ここに建築家の社会に対する理念が感じられ、それが空間的に現れていることに非常な感動を覚えた。

今回、なんども見ていた京都会館に関して、非常に新鮮な経験をすることができた。誰かに一生懸命説明しようとする事で、新しい気付きや再発見もあり、また印象や感想を言葉にまとめるよい機会になったのだろう。へたくそな英語ではあったが、伝えるべき事があれば伝わるのだという誰かの言葉を思い出した。

にしても、京都市には見学申し入れたのに、結局返事がなかった。もしかりにこれをきっかけに京都会館が世界遺産への道を歩むという事になったかもしれないのに、残念なことである。京都会館を世界遺産に。それがいい事かどうか賛否あるだろうが、今起りつつある事態に向けた一つの可能態として心にとどめておきたい。
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# by shinichi-log | 2012-02-20 22:08 | daily | Comments(0)
中国以外のアジアの国々に目を向けてみる、と。
先日のジャカルタの都市研究についてのインタビューを受けて思った事。

日本人建築家の十八番ともいえる個人住宅。けれども中国のように全ての土地が国の所有である場合、都市部では大規模な開発で集合住宅を建設するという事態がおこってくるため、個人住宅というリアリティが全然わかないというのが現状らしい。そうなると、日本で住宅をたくさんつくって実績を積んで、中国のマーケットにといっても中々理解が得られないという事も起こりえそうだ。けれども、都市化が進んでいるのはなにも中国だけでなく、インドネシアなど多くの国は日本(というか多くの国)と同様に、個人が住宅と土地を所有している。その上インドネシア政府は公共住宅の共有をほとんど行なっていないという事なので、タイプはあれど基本個人住宅によって都市が造られているともいえる。現状では、その地域の大工さんが住宅の建設に関わっているらしいが、日本同様世代が進むにつれて起る土地の細分化や、都市化による環境変化にたいして、建築的な有効な対応がとれていないらしい。なので、もしかしたらそういう場所には日本の建築家の住宅分野での豊富な経験の蓄積が多いに役に立つのかもしれないな、などと考えてしまった。中国のその先に。
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# by shinichi-log | 2012-02-07 18:39 | Comments(0)
京都の抽象的都市構造
さて、京都は碁盤の目を持つ非常に人口的で抽象化された都市基盤を持っている。それゆえ、町家(+長屋)という単一の形式をグリッドの中に効率よく展開し、普及させる事ができたのではないだろうか。結構道路がまっすぐで、街区のスケールも同じくらいというのは材料の規格化にも都合が良かったに違いない。そうしてつくられたのが、町家の連なる伝統的な美しい街並だった。少し前までは。現在では、そのような町家が比較的多く残るエリアも存在するのの、基本的には日本中どこにでもあるようなマンションや商店、建て売り住宅の中にたまに町家が残っているという言ってしまえば凡庸な風景で覆われている。それは、もちろん適切な都市計画や保存が行なわれなかった政策上の失敗でもあるのだけれど、グリッドの抽象的な都市構造は、町家の街並を形成するにも都合の良かったが、よく考えれば都市を均質化するという作用をそもそも強く持っていたんではないかと考えてします。だからこそ、町家という単一のシステムで街を覆うということもしやすかったし、全体的に中庸な都市が出来上がるのも簡単だったと考えれなくもないのではないか?逆に、谷や山といった地形によって少なからず都市空間が規定されている東京の印象は、全体的に同質というものではない。抽象的な仕組み以上に、地形の持つ力が残っていて、影響を今も昔も与えているからではないだろうか。1200年の間幾度かの消失を経てもなお都市を維持しえていることもこのグリッドによる効率のいい生成力によっているのかもしれない、とすると条件さえ上手く設定できれば街並の誘導も比較的行ないやすいとも考えられないか。条件を比較的揃える事が可能であるのだから。
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# by shinichi-log | 2012-02-06 22:31 | Comments(0)
memo...建築のライブをアーカイブすることについての問
メモ程度に。

建築はライブでしか体験できないので、それ以外の建築の伝達は2次的にならざるを得ない、というベタな話しがあるとして、現状その問題は建築にとどまらず、表現の世界ではどこにでも起っている問題なのではないだろうか?

サイトスペシフィックということで美術館からアートがでていったり、どうアーカイブするかという問題にも通じると思うけれど、これについてはmuseumの巨大化などによって物理的に再回収(そのために箱自体が最適議されるとうう逆説もありつつ)されたりしてきた。しかし、現在おこっているのはものではなく関係性であったり状況であったりとよりアーカイブが難しくなっている。また、第三者が後から見た時にそのライブでの体験との差異が、視覚的な作品とは異なったカタチで生まれてくるということは明らかだろう。(建築でも建物を作ることだけではないコミュニティのなかでの振る舞いそのものが評価対象となる状況がうまれつつあるように思われる。)

ライブで起った出来事や状況そのものが制作物として目指された場合、それはどのようにアーカイブされていくのだろうか?どのように伝達が目指されるのか?これは、建築においては特に展覧会という形式に置いてその困難さが露呈してしまう。また、大型のインスタレーションでの乗り越えというアプローチをとったとしても、アーカイブの問題は残る。例えば、川俣正のようなアーティストの作品が美術館に収蔵されるときなにがどのように収蔵されるのか?だから、建築が抱えるこのアポリアから、現在のアートを含むライブとアーカイブが分離した制作物においての伝達の方法や困難さについて考えることができるのではないだろうか?

ということをふと思った。
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# by shinichi-log | 2012-01-11 00:14 | Comments(0)
書き初め、ました
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今年もよろしくお願いします。
ともう何度書いたことか、そろそろいいだろうと思いつつ、昨日は新年会で書き初めというものをおそらく人生初で書きました。たしか「先手必勝」って書きたいと朝は思ってたtのに、忘れてしまい結局「先取先制」。まあ意味はほぼあっているのでよしとしよう。

昨年は、物事を後手後手にまわしてしまうことでいろいろ冷や汗かいたり、迷惑をおかけしてしまったりしたので、今年は少しでも先回りで物事を進めることができるようにしていきたいという思いを込めてみました。

とにかく、3月までの今年度をしっかり締めくくるというのが当面の目標。


ちなみに、10月にパリで行なった展覧会のカタログ(120分DVDつき)が販売開始になりました。以下のリンクからご購入下さい。建築系の書店にも随時置いてもらえるように動いていきます。よろしくです。http://kenchiku-architecture.com/#news/news_8
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# by shinichi-log | 2012-01-08 22:51 | daily | Comments(0)



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