CS_創造都市論についての覚え書き
毎月一度おこなっているコレクティブ・スタディーズにおいて、メンバーの森村氏から創造都市論についての発表と議論をおこなった。森村氏は日本における創造都市論の第一人者でもある大阪市立大学の佐々木雅幸氏の研究室の出身である。ビルバオやバルセロナなどの成功事例の紹介と共に語られることの多い創造都市ではあるが、その定義が様々な内容を包括しているがゆえに曖昧模糊としていることや、創造都市をどのように計画していけるかといった実践論にかけ、どこか成功事例の紹介と仮設にとどまっている感はいなめないというのが創造都市について一度考えてみたいという動機であり、また仮に創造性というものが市民の主体性によるのであればそこには都市におけるコレクティブネスが発露すると思われたからである。ちなみに佐々木氏によると「創造都市」とは「市民の創造活動の自由の発揮に基づいて、文化と産業における創造性に富み、同時に、脱大量生産の革新的で柔軟な都市経済システムを備え、グローバルな環境問題や、ローカルな地域社会への課題に対して、創造的問題解決を行なえるような『創造の場』に富んだ都市である」とされている。


以下勉強会の中で確認されたことと議論されたことをまとめる
・創造の場のマネジメントが重要とされている。

・グローバルシティというのが金融市場と結びついた大都市をベースにし都市論であるのに対し、創造都市論はスケールに関係なく文化的な多様性のネットワークである。ユネスコの創造都市ネットワーク。
・創造都市論というのは、創造経済(文化経済)なる概念をその基としている。つまり貨幣経済だけでなく、知的生産や文化的な活動の価値を取り入れた経済を考える。行政評価を経済性だけでない、創造性という軸を提唱する。
・これまで国交省系の政策によって実現されてきたまちづくりにたいして、文化政策としてまちづくりを位置づけるために(発明された)概念である。
→まちづくりにおいて、行政の縦割の壁をこえていくうえで様々な分野の政策課題として都市問題を捉えなおすことが重要になってくる。福祉(厚生労働省)と都市をあつかう平井
・佐々木氏によると創造都市の6つの条件は以下のように整理されている。
1芸術家や科学者の自由な創造活動の展開と、労働者のフレキシブルな生産の展開によって、自己革新能力に富んだ都市経済システムを備える
2創造性をささえる文化施設や、創造的仕事を支援する非営利セクターなどが、創造支援インフラとして機能する
3充実した社会サービスの提供により、生産と消費のバランスのとれた発展をしている
4都市景観の美しさを備えている
5行政に対する住民参加のシステムを備えている
6財政自主権と政策形成能力の高い自治体職員を擁する
→これらの条件は納得するところではあるが、包括的でありすぎるためにどのような都市でもある程度は言えるし、逆にすべての条件が完璧なところは存在しない。むしろこれらを指標として都市の分析と比較を行なうことは、その包括性ゆえに意味があるように思われるが、これらの条件を指標とするために必要な分析手法はここでは提示されておらず、全体的に印象論もしくは成功事例から導きだされた仮説にとどまっている。今後はこれらの仮説のの検証と各条件を指標化する手法の開発が求められるのではないだろうか。
・創造の場と呼ばれるものにどのようにアプローチしていくのかという方法論においても今後研究が期待される。

創造都市論なるものがどれだけの歴史的な強度をもった概念なのかは分からないが、現代都市に求められている特質が整理して提示されているということは押さえておきたい。
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# by shinichi-log | 2014-08-10 01:21 | Comments(0)
DESIGNEAST CAMP in KYOTO「MOVING DAY」直前!
いよいよ明日から!DESIGNEAST CAMP in KYOTO「MOVING DAY」。ぼくらRADが2年前から関わっている大見と言う元廃村を舞台に、私たちの暮らしをモノと人の動き方のデザインから考えるオールナイトのデザインキャンプです。これまでの活動を通じて市街地とは異なり、上下水道や携帯の電波、ネットサービスなど、様々なモノと人の移動に制限がある大見村という場所だからこそ、生きるということは、どのように様々なものを動かし、自分が動き、知識や歴史を継承していくのかということであり、そしてその「動き」をどうデザインしていくのかが重要であると考えるようになりました。MOVING DAYはそうした様々な世の中の動きとデザインの関係、そしてデザインの可能性を、大見という場所を起点として考えようと思っています。

ゲストは、建築家の森田一弥さん、FABLABの津田和俊さん、発酵WSなど実施されているなやカフェのゆうきさんです。森田さんは大見のある大原のお隣静原で事務所を構えつつ、ヨーロッパ・アジアと世界中で「左官」の技術を継承、伝播しながら設計活動を行われています。ローカルとローカルを移動することや、左官の土のような建材の流通についての再考を行なっていただきます。津田さんには、パーソナルファブリケーションがどのようにモノの移動を変化させ、それによって人の暮らしがどう変化していくのか、大見のような里山でFABLAB的なるものの可能性を探っていただきます。またなやカフェのゆうきさんには「発酵」という現象から、モノの生産と消費の関係を問いなおしていただきたいと考えています。今回WSでおこなう発酵サイダーつくりでは、炭酸ガスをいれただけの炭酸飲料ではなく、生きた酵母によって発生する発砲を楽しんでいただきます。このサイダーは市販のものとことなり、生きているのでしばらくおいておくとまたガスが溜まるのだとか。発酵という古代の人が生み出した画期的な食のデザインから、何を学ぶことが出来るのでしょうか?
という魅力的なゲストに加え、浜松からは403architecture dajibaの辻琢磨さんと+ticの2人が、そして出発式から連続出演中の飯田将平も参加予定。もちろんデザインイースト実行委員の5名も皆さんと一緒にキャンプします。深夜23時から朝までは以下の2名が火守りをつとめつつ場を盛り上げます。何が起きるかはお楽しみに。

:23:00-00:00火守り役:柳原照弘 + 森田一弥さん
:00:00-01:00火守り役:多田智美 + 大見新村シコブチ部
:01:00-02:00火守り役:水野大二郎 + ゆうきさん
:02:00-03:00火守り役:辻琢磨(&+tic)+ 津田和俊さん
:03:00-04:00火守り役:家成俊勝 + 大見新村開墾部
:04:00-05:00火守り役:飯田将平 + 大見新村(松延総司)
:05:00-06:00火守り役:原田祐馬 + 大見新村インフラ部(RAD)

あと、一日目の夜はhanautaさんケータリングによる村の晩餐会。二日目の昼は森林食堂さんとの大見村オリジナルカレー作りと、期間限定のキオスクでは、なやカフェさんの鹿肉ソーセージ(美味)も販売。食も充実。。。
です。

参加いただく皆さんよろしくお願いします。
残念ながら参加できない方は、報告をお楽しみに。
夕立もふくめ雨だけはふらないことをみなさん祈っておいてください。

http://designeastxkyoto.com/
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# by shinichi-log | 2014-07-25 23:22 | daily | Comments(0)
「窓のフィールドワーク」での雑感
昨日はミッドタウンのデザインハブにてWindouwScape展(http://www.ykkap.co.jp/madoken/news/news05.html)の関連イベントとして、能作文徳さん、金野千恵さんとご一緒させていただいた。以前ここからの建築というインタビューシリーズで取材させていただいていたので、聞き役としてお声がけいただいたようだ。

お二人はこれまで塚本研の一員としてWindowScapeのフィールドワークに多数参加されているので、その経験が現在の設計活動にどのように接続されているのか、またフィールドワークの醍醐味と現在的な意味を探り出したいと思っていた。

さてさてこの思惑がどれくらい上手くいったのか、、、司会をしながら自分のことを客観的にみれている状況でないとだめだと思うのだけれど、後半見えてなかったなーと反省。

拙い司会はともかく、お二人のお話はとても興味深いものだった。
能作さんは、WindowScapeのフィールドワークでの気づきの中から窓の見方を提示し、その後、実作を通じて実際窓がどのように現れているのか話していただいた。その窓は、機能的な要求よりも少し大きく開放的なものとしてつられることで、その場にいる人にアクティブな影響を与える。そこには生活の中で「自由」をいかに獲得するのかという問いが潜んでいるように感じたのだが、それは世界各地の窓辺にうまれている生き生きとした人々の生活を感じる中で浮かび上がってきたものなのだろう。また上岡のゲストハウスでは、屋根瓦を再利用することで街並への接続が計られている。印象的だったのは、そのような建築家の選択が、地域における瓦の存在を顕在化させ、地域の中で共有されるものになるのではないかということだった。歴史に接続し、地域に繋げていく。

一方、金野さんは自作の紹介を中心に、現在の日本の中で窓という空間の社会的な重要性を指摘されていたように思われる。Tentacle(=とおくにあるものでもこっそりとしっかりつかんではなさないもの)というキーワードをあげ、窓を境界としてではなく、インターフェースとしての可能性を実に豊かな空間的なリソースの中から構想されているのが印象的だった。どのような創作物であれ様々なレファレンスによって成り立っている訳だが、普通そのレファレンスはそのジャンル内から選ばれる。しかしロッジアハウスでは、じつに様々な地域、時代から集められたソースが縦横無尽につなぎ合わされリミックスされ、さらにそこにくらす住人の感覚でミックスされ、ローカライズされる。窓そのものではなく、窓を介してうまれる暮らしによって、近隣や地域、社会の問題へとひっそりと、しかし、しっかりと繋がっているのだ。

金野さんがルドルフスキーの「私たちに必要なのは、新しいテクノロジーではなく、新しい生活の術である」という言葉を紹介されていたが、まさにこの「新しい生活の術」としての建築をこれから我々は生み出すことができるのかが問われていると感じた。そのためには、フィールドワークによって、歴史と地域という垂直/水平にひろがる膨大な関係性の編み目を読み込み、そこに建築を接続させること、もしくは編み目をつなぎ合わすことが必要になってくる。そして、建築がそのような生活の術を生み出す力を持ち得ているのだという確信を得るために、フィールドワークに赴くのだと感じた。
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# by shinichi-log | 2014-06-08 11:05 | Comments(0)
輪中の郷
研究の資料調査のために三重県桑名市長島町を訪問。三重県と愛知県の県境、木曽河の下流の中州に位置する人口1万人ほどの町だ。町そのものではなく、長島リゾートや、伊勢湾岸道のPAに立ち寄った事のある人は多いのではないだろうか。この辺りは輪中といって中州の周囲に堤防が張り巡らされ、中の人々は海抜化で主に農業を営んで暮らしをたてている。輪中の成立は400年とも1000年前とも言われているが、洪水の旅に崩壊と再生を繰り返してきているようだ。明治期の河川改修で複数の輪中がまとめられ現在の長島が形成されたが、今でも昔の輪中の輪郭をなぞる事が出来る面白い街だ。写真のように家が一列に並んでいるのが昔の堤防の後ということになる。

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防災に力を入れつつ、農業で暮らしを営んできたこのエリアに温泉が湧き出たのが昭和38年。それをきっかけに行政主導で観光地開発がスタートする。同年には長島観光開発株式会社(現在の長島リゾートを経営)が設立されている。その後、昭和45年に都市計画決定が行なわれることになるが、その策定のための資料として環境開発センターが開発計画の報告書を手がけていた。今回はその報告書の内容と実際のその後の都市開発がどのような関係にあるかを知るための資料を探すことが目的だった。

すでに長島町はお隣の桑名市と合併しており、閑散とした長島支所にて都市計画課の職員の方と、30年長島の建設に関わってこられたもと建設部長の方から色々とお話を伺う事が出来た。ベテランの職員の方もさすがに昭和40年の報告書についてはご存じなかったが、その後長島で都市開発がどのような状況にあり今にいたっているか詳しく話しをしていただき興味深かった。特に観光開発の視点から開発計画をつくったものの、実際には昭和33年からはじまっていた木曽川下流農村水利改良事業が都市計画よりも強い影響を持っていたという話しは、都市が都市計画だけでなく、農業や防災からつくられているということを改めて意識させられて面白かった。実際町内の2車線の舗装済みの道路の多くが農道という名目でつくられているということだった。とはいえ、幹線道路や駅前整備には報告書の内容を踏襲する部分も見られたので、今後どの程度実現され、何が門d内であったかの検証を進めていきたい。

その後は、職員の方に長島町をぐるっと案内していただき、輪中への理解を深めることができ、紙袋一杯のパンフレットや報告書を手みやげに帰路についた。
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# by shinichi-log | 2014-05-21 19:00 | daily | Comments(0)
アトリエ・ワン「マイクロパブリック展」
GW、日帰り強行で広島現代美術館で開催中のアトリエワンの展覧会「マイクロパブリックスペース」を観に行った。

展覧会は、建築家ユニットのアトリエワンが2000年以降取り組んでいる人々の振る舞いによる小さな公共空間のリサーチとそれをベースにした作品と、近年彼らが取り組んだ公共的な建築プロジェクトを紹介したものだ。タイトルになっている「マイクロパブリックスペース」とは、都市計画的に作られる公による広場や公園ではなく、都市の物理的な環境と、そこに暮らす人々の慣習的な振る舞いが生み出す都市の風景のことを指す。そして彼らは、それらを先鋭化、結合、アイコン化させて生み出される移動式の装置が都市の中に再挿入し、マイクロパブリックスペースと呼ぶべき空間の生産を試みている。近年では、渋谷の宮下公園や北本駅前広場のプロジェクトにおいても、発展的に応用されている(ことが展示で示されていた。)

アトリエワンは、これまでもリサーチの結果としてのドキュメントを、これまでもすぐれた方法で提示してきた。メディアの選び方そして、単線のアクソメのドローイングなどの表現において。ともすれば社会状況の提示、社会的なプロジェクトの結果の報告に終わってしまうリサーチやプロジェクトという行為を、作品へと昇華させている。そして、それが研究になり、書籍になり、理論になり、作品になる。

展示会場には、過去に様々な場所のリサーチを通じて制作された移動式(仮設)の装置(実践)とともに、簡潔な解説文(分析)、実際に使われている状況の動画(ドキュメント)が設置され、来場者は展示物に触れたり中に入ったりしながら鑑賞することができる。これは、建築の展示によくあるような実際の空間体験を重視するというよりは、装置にふれることで生まれる身体的な身振りなどによって、異なる都市空間でのリサーチと実践のドキュメントを補強することが目指されていたように思われる。

うまく言えないが、単に実際に空間を体験できるというスペクタクルなアトラクション的な展示を目指すものではなく、実際の社会の中で構築された状況、生産された空間を美術館という制度の中で提示するための、きわめて独創的で形式的な表現の構造が用意されているという意味で、きわめて今日的なテーマをはらんだ美術展ではなかったか、と思われる。

追記・・・後半の北本や宮下公園を表現した大きなドローイングについては、敷地やその場所を利用する人々だけでなく、その街全体の施設の様相や人々の過ごし方(施設に来る前にはどんなところにいるのか、どういう人たちがいる街なのか、など)が、設計のためのコンテクストとして認識されている。3つのドローイングがどれも半屋外的なものだったのもあるだろうが、それぞれが都市に編み込まれている様が、マイクロパブリックスペースの連続として見えてくる。
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# by shinichi-log | 2014-05-06 22:38 | review | Comments(0)
ファッション(イメージ)と政治についての写真レクチャー
本日の精華大学での授業は、特別講師に写真家の鈴木親さんを招いての写真のレクチャーをおこなった。鈴木さんはPurpleなどの海外のファッション雑誌を中心に活躍されている。

まず、ファッションというのが、「服つくり」ではなく、いかにイメージをつくり出すこと、操作すること、そのものであるか、そしてそれ故にファッション(イメージ)がつよく政治(ポリティク)ないしは経済や社会と結びついているのかということがひとしきり話された。イメージにお金を使って価値を上げるのがファッション、そうでないものはたとえ服であってもそれはファッションではない。こうした考え方は、実は現代アートや「建築」においても成り立つ。コンセプトがない絵はアートではない、思想性の無い建物は「建築」ではない、など。ゆえに、それは今の世の中にあっては一定の真実なのだろう。そしてこのイメージをつくることは、政治や社会情勢を意識的に操作することで可能になるのだという。それも表層的なイメージテクニックとは異なる、物事の成り立ち、背景を理解した上で行なわれる知的なイメージ操作によってなのだ。

そのためには、奇麗に撮ることだけでないテクニックが必要となってくる。だから、撮影現場の状況作りも重要な仕事になるし、イメージの世界を拡げるために何が必要かをつねに考えないといけない。

そういう内容のことを、自身の撮影現場での実践やエピソード、ちょっとしたテクニック、他の写真家についての解説、広く文化的な話題にまたがって分かりやすく丁寧にお話していただき、大変勉強になった。

「政治的なものにたいする芸術の関係は・・・虚構を産出する二つの方法の関係に等しい」ジャック・ランシエール
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# by shinichi-log | 2014-05-02 00:49 | Comments(0)
京都の非京都
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京都市は面積827㎢、人口約147万の都市で、政令指定都市中、面積は広島につぎ5位、人口は7位となっている。その全てが京町屋やお寺が並ぶような観光地ではないわけで、一方で商業地や業務地区をささえる住宅地、ニュータウンが存在し、また大見や京北地区のような山間部も存在している。そして当然のことながら147何人の胃袋を満たす食料がどこかから供給されている。

その供給元は当たり前だが、市場ということになるだろう。そしてJR丹波口に位置する京都卸売り市場はその中心となる場所である。東京の市場が観光地としても人気があり、存在がしばしクローズアップされるのに対し、京都の卸売り市場の知名度は低い。以前テレビで卸売り市場で行なわれるマグロの解体イベントの宣伝をみたことがあるので、まったく閉鎖的という訳ではないのだろうが、、、。むしろ京都を代表するのは錦市場ということになるのだろう。

この卸売り市場の周辺には場外市場とでもいうべき独自の街が形成されており、全くもって非京都的な雰囲気がただよっている面白いエリアになっている。ここで知り合いがビル一棟借りてのプロジェクトを進めており先日訪問する機会があったのだけど、機会があればじっくり調べてみたいと思った。
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# by shinichi-log | 2014-04-30 23:49 | Comments(0)
雨の小休止
昨晩からの雨のために当初予定されていた大見のゴミ拾い活動は一旦中止。
GWにうまれたすっぽりと抜け落ちた変な空白。
かわりに大見の今年行なう予定の水のワークショップの企画書を作成するなど。

その過程で、飲み水とはいったいどういう状態の事をさすのかがどんどん分からなくなってくる。
飲めればいいのか、それは美味しければいいのか、健康に害がなければいいのか、しかしどれくらいのスパンでの害なのか、国が定める30種類の基準を超えてしまうことはどれほど危険のなのか。

iphoneやネットによってつくりだされる大量の情報を処理する一方で、ひとつひとつの概念はますます抽象化記号化してしまっていて、その中身がどうなっているかは理解しないままコミュニケーションだけが異様に進化している。だから、飲み水というものがどういう事を意味しているのかなどだれも知らない(専門家以外は)が、それは蛇口をひねり、コンビニに行けば手に入る。人為的につくり出された第二の自然とでもいうべき社会インフラのひとつひとつの成り立ちを明らかにしていくことと、もう一個人単位で再構成可能にしていくこと。それが大見で試みたい事。

知らない事が多すぎる。知れない事も多すぎる。
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# by shinichi-log | 2014-04-30 01:36 | daily | Comments(0)
敷地を構築する
建築を生み出すために重要なことが2つあるとする。
一つは言うまでもなく様々な状況や条件から方法、素材を選び出し、一つの建物を構築すること。そして、もう一つはその建物が建てられる場所を、「敷地」として構築すること。それは単に場所を選ぶということだけではなく、均質な空間の中に様々な意味を見いだすことではないか。この敷地を構築することと、そこに建築を構築することは、通常の設計活動のなかで分ちがたいものとして存在している。そんな敷地の構築という部分が異様に肥大化してしまったがゆえに生み出されたような展覧会を先日みた。
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# by shinichi-log | 2014-04-15 11:39 | review | Comments(0)
大見新村3年目にむけて
この4月で大見新村プロジェクト3年目にはいる。
2年前、藤井さんにコンポストトイレの建設を依頼されたことからはじまったこの村作りのプロジェクト。単なる再生ではなく、今の価値観、技術によって可能な豊かさを育める村を生み出すことを目指している。当初5名だったメンバーは、昨年20名をこえ、そのメンバー独自の取り組みもうまれてきた。まだまだ2年前最初に訪問したときから劇的に変化があるわけではないが、、、

さて、前回のミーティングでは、今年度の活動のベースとなるワーキンググループの立ち上げをおこなった。それらが、開墾部や建築部、入村部など、村役場の部署みたいなことになってきたのはおもしろい。山部(山口と山田で山部)というのもある。おそらく今の大見のように、まずは村のフィジカルな面での再生を集中して行なう上では、役場的な明確な役割分担の形式が適しているということだろうか。

一方で、なんとなく既存の縦割り型の組織つくりになってしまっていることへの疑問も生まれている。新しい村作りのはずが旧来型の運営システムを模倣してしまっているのではないか。話し合いの中でもこうしたセクショナリズムにたいして、スキルによる領域横断的な関わり方の提案もおこなわれた。今のところ、規模も小さく、相互の連携もとりやすいので、危険性は少ないと思われるがプロジェクトの規模が大きく、目的も複数かしてくるとどうなるのか?おそらく、この運営会議のありかたは、こんごの新村の運営方法とも直結してくると思われるので寛容性をもち、持続可能な組織のありかたを模索していきたい。

村作りはなにもフィジカルな面だけではない。
コミュニティーのありかた、村人の定義など、制度の面においてもいろいろな実験が必要になってくる。事実、メンバー間で常に運営方法やメンバーの扱いについて議論がおこなわれている。個人的には村の景観や住居などフィジカルな部分への興味が大きいのは事実であるが、それらは村の運営方法を考えること抜きに成立しない。何かをつくること、その前提にはどう運営していくかという議論がかかせない。

さて、大見新村プロジェクトでは今年一緒に村作りを行なってもらえる仲間を募集しています。また昨年にひきつづき村の清掃活動なども行なう予定。気になる人は気軽に連絡してください。
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# by shinichi-log | 2014-04-15 10:55 | daily | Comments(0)
つくえの積み方
先日は京都芸術センターで開催中の高橋耕平『史と詩と私と』展のスクリーンの制作を手伝った。閉校になった小学校の記録を、同じく閉校になった小学校跡である京都芸術センターで上映するという作品で、そのスクリーンとして小学校の机を積み上げたものをつくりたいという相談に応える形で、どうすれば机が横向きにブロックのようにつまれるのかを考えています。手前の天板を連結し一枚の板のように扱い、机の脚は木枠に引っかけ自重で枠がずれないようなつくりになっています。

もし観に行く機会があれば映像と共にその支持体となるスクリーンの方もぜひ。
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ちなみにこの展示は公募になっていてその審査員は青木淳さんでした。
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# by shinichi-log | 2014-02-11 01:22 | daily | Comments(0)
備忘録:アフター・アノニマスデザイン
昨日行なわれたアフター・アノニマスデザインで思ったことをつらりつらり。羽鳥さんの逃げ地図からの4つの考察「切実な要求ー一次情報にいかにふれるか」「現象の背後の関係性」「適合的な合理性」「衆愚におちいらない」、その後の水野さんによってしめされたプロダクト→サービス→システムというデザイン領域の変化、およびそれらが批評的にリンクし合うという話は個人的にも非常にしっくりくる話しだった。ここでいうサービス、システムというのは羽鳥さんなどがいうインフラに近い概念だと思うが、戦中戦後国土開発をベースに実施されたきたインフラなるものは道路やダムを中心とする土木的なものだった。そうした基盤のうえに都市が、そして建築がつくられてきたし、ゆえになかなか建築家はインフラへとアプローチできなかった。それらは国家によって管理されており、土木系の技師たちは戦前戦中を通じ、技術者運動等を展開することで徐々に官僚機構の中でその位置づけを深めてきた。一方で建築は、アノニマスな官僚制のなかで振る舞うよりも、個人の有名性に依存し生き残る道を選んだ感はいなめない。多くのクライアントが民間であった建築はそのようなアプローチが可能であったということもできる。
さて、現在ではインフラという概念は土木的なものから、

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# by shinichi-log | 2014-02-11 01:13 | Lecture log | Comments(0)
「かぐや姫の物語」を観て

お正月のしめくくりに「かぐや姫の物語」をみた。よく知ってる筋書きはそのままであるのに、すぐれた語り部によることで、昔話がこんなにも今を生きる物語となって展開されるのかと驚きだった。そのお話を知っているということと、物語として味わうというのは異なる体験なのだろう。今では絵本を読むことでその筋を知るということが昔話の経験になっているが、昔のようにおじいさん、おばあさんなどによって語られていたものは、その語り手の生き方も含み込みながら物語としての豊かさを包含していたのではないか。昔話は多くを語らない。多くを語らないからこそその行間に、個別の登場人物のキャラクターに、語り手の息吹が入り込む余地がある。生まれて初めてかぐや姫の気持ちに思いをはせることになるのも、このすぐれた昔話の構造を周到しているからかもしれない。そういう意味でも、これは「竹取物語」ではなくまさに「かぐや姫の物語」というにふさわしい作品ではないだろうか。

さて、宮崎作品は何度観ても変わらず面白いのにたいして、高畑作品は観れば観るほど違った味がする。今回のかぐや姫の物語も今後何度か観ていくうちに今とは違う感じ方を何度もすることになるのではないだろうか。その違いはおそらく、宮崎監督がそのメッセージの強度が、その物語が展開される世界=設定によっているのにたいし、高畑監督はそこで生きる人間の姿を通じてメッセージを描いているように思われる。宮崎監督の世界、もしくは時代は常に眩い魅力を放ち、そして独特の情景や強度を有している。それにたいして高畑監督の描く人物の想いは観るものと共に変化する。その細かい心の機微を捉えるための表現が随所に仕組まれているのではないか。だからかめばかむ程味が増すのだ。
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# by shinichi-log | 2014-01-08 16:12 | review | Comments(0)
ロラ・アリアス「憂鬱とデモ」
KEX最終日に今回3本目となるロラ・アリアス「憂鬱とデモ」を観に行く。鬱病になってしまった作者の母親についての物語。設定がシンプルなだけに「演出」そのものの力がとても強い。ともすると単純な母親についての独白になりかねないものが、演劇になるというのはどういうことなんだろうか。演出とはどのような錬金術なんだろうか。演出によって内容そのものも変わるのか、変わらないのか。メッセージの全体を伝えようとする時にただ順序よく話すだけでは伝わらないように、様々な強調や変形によらなければ伝えきれないものがあるのだろうか。虚構と現実、演技と記録、此処と彼処、現在と過去がひとつの場所で生起しては消えていく。演劇の捉えがたい魅力はそこにある。
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# by shinichi-log | 2013-10-28 02:05 | daily | Comments(0)
本義について
建築の本義は意匠か(つまり芸術か)、構造か(科学か)という議論に際しての後藤慶二の言葉。「構造を造るものは知識にして、建築を成すものは心なることを」後藤慶二(「形而下の構造に対する形而上の批判」より)

かっこよすぎる。
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# by shinichi-log | 2013-10-28 01:49 | Comments(0)



日々の何かについて、建築・デザインなど
by shinichi-log
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