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50枚のまとめ
年忘れプレゼンテーション用のパワポづくり。
普通にやっていたら1時間は超えてしまいそうなので
1出来事、1ページでまとめることに。
それでも50枚くらいにはなりそうだから、
一枚20秒でも17分。。。

これで、みんなに少しは全体像を提示できるのだろうか?
それとも単に混乱するだけだろうか。
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by shinichi-log | 2009-12-17 03:49 | daily | Comments(0)
openlab.09/「しっかりと忘れるための忘年プレゼンテーション」
websiteでも告知していますが。。。

openlab.09/「しっかりと忘れるための忘年プレゼンテーション」
時間/18:00 ~  場所/radlab. ※参加自由

忘年会を行います。が、一年を忘れるためにはその前にいちど思い出すことが必要です。ということで、「しっかりと忘れるための忘年プレゼンテーション」 を、忘年会とともに行おうと思います。飛び込み参加ももちろんオーケー、 ひとグループおよそ10分のプレゼンテーションを予定しています。今年こんな事をしました、来年こんな事をしようと思ってるなど、 肩肘張らない年忘れ発表会になればと思います。 もちろん今年何やら色々とあったRADもプレゼンします。

日時:12月19日(土) 
開場 18:00〜(立食パーティー形式)
プレゼンテーションスタート 19:00〜(食べながら)
終了(2次会へ) 22:00 を予定しています。
会場:radlab.(アクセス)
(※radlab.は、RADが運営する建築やデザインに焦点をあてたオルタナティブラボです。)
参加費は500円、フード持ち寄りでお願いします。
(ドリンクはこちらで用意します。)

ぜひ、どなたでもご参加ください。
事前にメールでも頂けると助かります。
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by shinichi-log | 2009-12-11 00:57 | daily | Comments(0)
整理する一日
今日は一日名刺の整理やら、アドレス帳の整理などをやりつづける。
人と出会うのはたいていイベント時のドタバタとしている時期なので、そのときごとにきちんと整理すればいいのだが思うようにいかない。ので、年賀状とかもろもろが頭をよぎる段になって、一からはじめないといけないからしかたがない。

そんな愚痴めいたこと明かりを思っていた訳ではなく、頂いた名刺をみながら今年出会わせてもらった方々の多さに感謝しつつ、過ぎていった今年のこと、また来年のこと等を考えていた。

明日からはそんな悠長なこともしていられないのだが(佐藤さんが来る)、やれることはきちんと終わらせて、つつがなくお正月を迎えるのも悪くないなと思ったりしている。あたりまえのことでしか無いのだけれど。
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by shinichi-log | 2009-12-11 00:52 | daily | Comments(0)
コピーとオリジナル、あるいはコピーのオリジナル
コピーとオリジナルの問題を考えようと思っている。

通常世の中は、あるかぎられた建築家やデザイナーが作り出した「オリジナル」の「コピー」としての商品によって成り立っていると言っていい。一部の天才のクリエーションがコピーというプロセスを経て広く世界に流布されていく。これがおもしろいのは、このコピーがアナログのコピーでどんどん劣化していく(と思われている)。素晴らしい作品、アイデアでも、世の中に広まる頃には劣悪なコピーが出回り、結果悪しき根源としてオリジナルまでも非難されるようになる。

先月、我が家に泊まっていたスイス人のデザイナーCAPUTOの『COPY BY KUENG CAPUTO』という作品集では、そのコピーに対する興味深い考察が試みられている。そこでは、きちんとオリジナルの制作者に許可を得た上で、彼らが世界中で出会ったすばらしいオリジナリティーあるデザイン作品をコピーし擬似作品をオリジナルとあわせて提示している。そこではオリジナルのコピーによって与えられる創造的なインスピレーションについて、またオリジナルの重要な側面があらわにするのだという。「コピーのオリジナリティー」はどのようにしてインスピレーションが与えられたかをあきらかにするのだという。

そんな事を思いだしながら街を眺めていると、世の中のほとんどの建物は何らかのマスターピース(オリジナル)のコピーである事が見えて来る。それが全体でなくても部分的に取り込まれている事もしばしば。ここはコルビジェ、ここはミース、ここはテラー二、ここは・・・。そうやってそのコピーからオリジナルを思い起こすという事自体が一つの都市の見方を提示しているようにも思うし(ある教育的な側面も伴って)、都市への意識も変わるかもしれない。

でもほんとに考えたいのは、いかにオリジナルはコピーされるのか。結局世の中に影響のある建築とはよりおおくコピーされた建築だとも言える。だから、コピーのされ方を歴史的に探る事で、建築を通じたよりよりよい都市の作り方等が見えてくるかもしれない。そういえば、数年前に新建築住宅建築設計競技で「リセール・バリューのある家」というテーマの問題があったが、コピー回数が多い等のはリセールバリューのある建築ということができるのかもしれない。
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by shinichi-log | 2009-12-11 00:42 | daily | Comments(0)
美に就いて、より
「美しく見せるための一文があってはならぬ。美は、特に美を意識してなされたところからは生まれてこない。・・・そうしてこの「やむべからず実質」がもとめた所の独自の形態が美を生むのだ。」

「問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引き換えにしても、それを表現せずにはやみがたい所の汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なるものを取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。」
(坂口安吾『日本文化私観』より抜粋)
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by shinichi-log | 2009-12-10 00:46 | daily | Comments(0)
QCvol.2/問い(ルール)の設定について
1月スタートのQCvol.2。テーマは「町家と景観の選択肢」。
町家と景観について、よくあるような保存っていうことは一旦おいといて、
一体何が原因になっているから、町家や景観のが問題視されているのか?
どう問うことが有効なのか。
みたいなことを、都市工学、公共政策、文化地理学の先生方とともに考えていく計6回。
詳しくはこっちを。

このQCでは、何が答えかではなく、何が問われるべきかを問うということになっているけれど、ここでは、どのように問うのかということが、ある問題を考える上での「ルール」のようなものとして考えられる。結局、多くの景観、町家の議論というのが不毛なものに思えるのは、非常に単純化された「保存すべきかどうか」と問う「ルール」の中で行なわれているからだと思う。そもそもなぜ保存が必要かを問うルールがない。なので一度その既存のルール自体を疑い、その上で有効な新しい「ルール」を設定する必要がある。ルールを設定した上で、ではあなたは如何に振る舞うか?そのあたりの議論まで到達できる事を願う。
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by shinichi-log | 2009-12-08 23:57 | daily | Comments(0)
自主映画の見方
昨日、知り合いの自主制作映画上映会にいく。
西陣にある町家を改装した雰囲気のいいカフェの座敷での、こじんまりした上映会。

極めて90年代的感性(というかエヴァ)を感じさせる映像に、唐突というよりあきらめというべきラストの描き方。まあ、これから始まるのだろうといい意味でエールを送りたくなったが。

個人的には、カメラワークや絵コンテみたいなものをじっくり考えながら、そして意識しながら観ることができたのが面白い体験であった。裏を返せば、普段見ている映画がいかにカメラの存在や作り手の存在を消しているのかがよくわかる。意識させちゃうとだめなんだなーと。

正直言うと自主制作映画の楽しみ方が昔からいまいちよく分からない。
というか、面白かったーとか感動したという経験が無い。
商業映画の楽しみ方、映像作品(アート)のおもしろさは、なんとなく分かるのだけど。
映画としてとられているからにはある種のエンターテイメント、文学をとろうとしているのだろうけれど、自主映画のエンターテイメントより自意識が強く押し出されているように感じるからだろうか?
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by shinichi-log | 2009-12-08 23:25 | Comments(1)
たったひとりで出来る事
NHK「たったひとりの反乱」を見た。
干潟の埋め立てを防ぐため、5年間たった独りでゴミを拾い続けた森田さんの物語。
拾いはじめた74年という状況を考えると、その事が以下に困難だったかが偲ばれる。
地域住民は、ゴミ捨て場と化し異臭を放つ干潟の埋め立てに賛成。市役所も国も相手にしてくれない。
その上干潟から拾ったゴミを市役所は引き受けてくれない。
それでもゴミを拾い続けた森田さん。

干潟が必要としていたのは、エコロジーとか鳥獣保護とかそんな事ではなく、この自分という人間を必要としているんだと感じたという言葉が心に残る。手の指紋がすり減ってしまったという。

結局干潟の保存が決まったのは10年後。途中、地域住民の協力も得られるようになり、形成は徐々に変わっていくことになったという。(このとき道路公団がボランティアでゴミ捨てを手伝ったらしい。なんか初めていいイメージを道路公団に抱いた気がする。)

社会を動かすとか、人々の意識を変えたいというのがどういう事なのか?
あらためて問われた気がした。。。

たった独りで出来る事、それも捨てたもんじゃない
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by shinichi-log | 2009-12-08 23:01 | daily | Comments(0)
村上隆のホンネ!?
「思想地図vol4」の村上隆との対談が予想以上によかった。

前半は、スーパーフラットとか、日本におけるアートの位置だとか、そのなかで村上隆がどのように振る舞ってきたかという話だったのが、後半「ちがうよ!!」という叫びとともにぐっとアクチュアルな内容になっていき生き生きとして来る。

その発言自体は村上隆が新しいフェーズにいかずに引退する可能性もあり得るということに対して東浩紀「また読者サービスの答えになった」と応じた事への返答として発せられているんだけれど、もっと大きくアートの制度をあまり詳しくも知らない論者に対しての批判としても向けられていて、それが結構手厳しい。

でなぜ、引退が戦略上ありうるかというと、アーティストにとって「自分の旬の時代を自分の死後、次の時代に残す」というのも一つの仕事だから。そしてコンセプチャルアーティストは皆しょうもない版画などをビジネスとして成り立たせながら本当に引退していると。確かにこうやってビジネスをする事が、ある使命感として(ホントか嘘か知らないけれど)という考えは聞いた事が無かった。

終盤に「芸術とは何か」という議論があって、そこでも結構いい事言っている。評論家でもある黒瀬氏の作品について、80%感覚的で「20%コンセプチャルにして逃げ切る」というふうに見え、「なんちゃって」作品だと批判した上で、それが「手を急ぐ事」だとし、鑑賞者に対して「性急に出さなくて宵答えを自分に我慢できずに出しているように見える。」と評している。それでは予備校の試験対策の絵でしかないと。じゃあ美術って何なんだというと、「複雑な手を複雑なまま保留して頭の中の思考回路を複雑なままキープしながら、それで必勝という手を見つける」まで思考し続けるものだと。そして大学というところは、海外の作品の見方を教えるのではなく、「本当は複雑なゲームを仕掛ける見方」を教えるべきなんだと言っている。通常、村上隆の話からは金を稼げるようにうまくたち振る舞わないといけないという単純なメッセージだけを捉えがちだけれど、そうじゃないんだと、いかに振る舞うかの問題と美術の本質的な問題が密接に関わっているという事を言っていたのだと改めて認識させられた。

これは、実際制作しているアーティストはぜひ読むべきなんじゃないかと思う。




さらに終盤アートとは何かを巡って結構いい事を言っています。
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by shinichi-log | 2009-12-07 00:51 | daily | Comments(0)
三分一博志レクチャー/環境をエネルギー場として捉える
建築家三分一博志は、「地球のディテール」というキーワードとともにエコロジー系の建築家として捉えられてると思う。初めて三分一氏の建築を雑誌で見かけたのはMIWAGAWAという木目の美しいコンクリート打ち放しと、型枠を使った建具の建築で、写し取られたもの(型枠)と、写されたもの(コンクリート)ので出来ているこの建築は、その素材の一体感と、また完璧なデイテールが静謐な印象を与えるミニマリズム的美しい建築だった。なので、その後彼三分一氏が勾配屋根の地中に埋まったような環境系の建築を生み出しているのを見て、少し残念に(入らぬお世話だが、あんなに美しい建築をつくれるのだからもったいないという思いから)思いながら、特に強く注目してきた訳ではなかった。そういう経緯もあり、個人的には今日の大学での特別講義の期待度はあまり高くなかったと言っていい。しかし、結果今年一番の充実した特別講義だったのではないだろうか。

Energy Scape
三分一建築のユニークなところは、建築も地球/環境もエネルギー場として統一的に捉える視点だと思う。それは、人も自然も地球の一部というような共存というレベルを超え、それらを別々のものとして捉える事無く、同一の系としてみる事を意味している。統一場理論というものがあるが、そう言う考えに近いのかもしれない。景色というものはエネルギーの景色(Energy Scape)としてつくられているという。ゆえに、三分一にとって建築も、地球も、環境も等価であり、そうであるが故に建築が環境になる、地球になるという思考も可能になるのだ。地域の素材を使い、形態的に溶け込ませていくように建築を消していった隈研吾に対し、三分一氏は、建築もエネルギーの場として環境と同一に考えるという意味で建築が消えていっている印象を受けた。

地球のディテール/建材
このEnergy Scapeという思考法でもって具体的に建築に落とし込んで行くときに、鍵となるのが「地球のディテール」なのだ。「自然環境に導かれている風景や建築は地球の一部となりうる」「全てのディテールは地球に通じている」と三分一氏が言うように、ここでの地球は土や空気、水などの環境総体の事を指す。もちろん空気自体の詳細を扱う事は出来ないのでここでのデイテールは「存在の仕方」というぐらいに取ればいいと思う。そしてこのディテールを適切にあたえることで、あらゆる自然素材(空気、水など)を知的な「建材」として使うことが出来るのだと言う。つまり空気のような環境的な要素を、それ自体が建築を構成するものとして、ガラスや木などと等価に扱うという考えが「建材」という言葉に見て取れる。そして、そのような環境的な要素を「建材化」するために必要とされているのが適切なスケールとディテールなのだ。

とはいえ、そこには絶えず「装置」っぽい建築への契機が落とし穴として残されている。ある種の性能を愚直に追いかけた結果、生真面目さが裏目に出るということも起こって来る。装置的であるものを、きちんと風景としてみせる。そこには別種の建築的な感性というものが必要になってくるのだろう。

都市へ向かう可能性
今回の講義で示されたのは比較的地方の自然豊かな地域での話だったが、犬島のプロジェクトで人のてによる廃墟も過去に膨大なエネルギーが注ぎ込まれた場として捉えたというふうに、都市をEnergyScapeという見方で観るならば、巨大なエネルギーの塊(何百万人という人、車、都市の熱)である大都市においてこそ、三分一建築の可能性が開かれる気がしてならない。現在は建築も車や人と同様かそれ以上にエネルギーを排出する存在であるけれど、そのような都市のエネルギーに適切なディテールを与えて、建材化し、建築に取り込むことで、建築が効率的に都市のエネルギーを消化するように存在するのかもしれない。それは緻密なデザインと、取り組み、そのためのリサーチがそう思わせてくれる。ここに三分一氏の建築の魅力があるのではないだろうか。
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by shinichi-log | 2009-12-03 02:17 | Lecture log | Comments(0)



日々の何かについて、建築・デザインなど
by shinichi-log
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