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「アーツ・アンド・クラフト」展
京都国立近代美術館へ「ウィリアム・モリス展」をみにいく。

「アーツ・アンド・クラフト」から始まり、グラスゴー派、ゼセッション、ドイツ工作連盟、日本の民芸へと向かう展示内容。
アーツ・アンド・クラフトがモダンデザインの先駆けといわれても、その理想としたのは中世的なギルドの世界であり職人技への賛美であり、同時期のゴシックリバイバルなんかと結びついていている表現に対して、モダンの新しさを感じることは出来ないのではないだろうか。ただ、そこからあまり違和感なくドイツ工作連盟まで変化していくことを考えると、根源としてのアーツ・アンド・クラフトが見えてくるような気がした。

しかし「アーツ・アンド・クラフト」がそれ以前と異なっていたのはまさにモリスの存在によってではないのかと言う気がしてきた。つまりデザイナーとしての存在がそのものと共に、もしくはそのもの以上に浮かび上がってくる事が、もっともモダンなものの現れ方なのではないかと思わされた。中性の職人はそれこそ無名の工匠であったはずである。

「アーツ・アンド・クラフト」では作品のレベルは職人のものとあまり距離を持たないが故に、その〈作家〉性がつよく現れてくる。

とはいえ、モダンデザインの黎明期を形作った想像力を伺い知ることのできる展覧会であったように思う。
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by shinichi-log | 2008-10-31 00:49 | review | Comments(0)
RAD room
河原町三条にあるアトリエですが、RAD roomという名前でいろいろな活動を行っていくオルタナティブスペースにしていきたいと思っています。

で今天井を抜いたり、キッチンをコンパクトにしたりと改装中。
今回は模型をつくって図面を引いてというのではなく、壊して現れた空間をその場でどうするかを考えていくようなプロセスでつくっています。これから何度も自分たちでいじっていける場なので、完全系を設定するより絶えざるプロセスにしてしまう方がいいのではないかと思っています。

来週からのレクチャーに間に合うようにがんばります。
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by shinichi-log | 2008-10-31 00:47 | daily | Comments(0)
市田良彦LectureLog
QuerycruiseはLマガジンに情報掲載されたものの厳しい状況はつづく。。。

造形大での市田良彦氏のレクチャーへ。ポストモダンを「新しいことはない」「決定不能性」と定義し、そこからポスト・ポストモダンとでも言うべきその後の状況が、リオタールの転換を指し示しながら提示されていく。(リオタールのユダヤ主義化や80年代後半からのレヴィナス人気)。そこでは、「決定不可能性」が「他者」や「崇高」という概念に結びつきつつ、ポスト・ポストモダン=「倫理」ではないかと述べられた。

簡単に言うと
「決定出来ない」(「表象できない」)
→「決定してはいけない」(「表象してはいけない」)・・・倫理の問題
への変化として捉えられる。具体的には、クロード・ライズマン『ショアー』における非ホロコーストの表象不可能性と、アウシュビッツの4枚の写真をめぐる表彰してしまっていいのかという問題として提示される。
さらにここでは〈他者〉(表象不可能性)をめぐって、政治と美の問題が〈倫理〉という点において出会うとされる。

しかしその〈他者〉を設定するということは、我々という公共空間とその外部として排除するという理論であり、ある意味で非常に古典的な共同体感に繋がっていくことになる。

それに対して、ランシエール()が提示する共同体は、「他者との抗争によって生まれる共同体」とされ、絶え間ない〈移行プロセスがつくりだす共同体〉となる。

その抗争の舞台にみんなが立っているかといばそうではなくて、その舞台に上がる前と後というプロセスを考える必要があるのではというのが市田氏の主張。そこでカギとなるのが芸術や文学といった感覚レベルで分断線を組み替えるモノになる。この感覚レベルでの思考の変化によって、移行が起こり、政治と芸術が接続するのではないか。そういう意味でも芸術やアートが持ちうる力や役割に期待を持っているということであった。

(良く理解できてないので、意味不明のまとめになっている。。。)
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by shinichi-log | 2008-10-29 00:11 | Lecture log | Comments(0)
コールハースは語る、その後
コールハースのインタビュー本を購入。
楽しみにしていたのにあっという間に読み終わってしまい残念。。。

いくつかのインタビューの寄せ集めであるために全体のパースペクティブを欠いてしまっている印象も否めないのだが、そのような様々な領域を横断的にまた断続的に移動しながらすすむ思考は極めてコールハース的とも言えるのかもしれない。

そしてほとんど彼の活動のインパクトしか受容しえていないのだと改めて気付かされることになる。

文化と政治の問題、ノスタルジーとルネサンスの関係、市場経済、中国的都市、etc...。建築が都市の中にあって、またグローバルな世界にあってどう存在する事が出来るのだろうか、、、
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by shinichi-log | 2008-10-23 23:45 | review | Comments(0)
船研のりの秋空に
週末は相当きもちのいいものだった。
日中こそ少し暑いものの、時折吹く風が心地よい。

そん中、角田先生の自宅のオープンハウス兼飲み会にハルの好意で参加する事が出来た。
ほぼ船研メンバーの中ではあったが、懐かしい顔にも会えて非常に楽しいひとときだった。
家は半地下の事務所に大きな吹き抜けを持ったRCの住宅で、つくり込みすぎないというか、おおらかに構成された柔らかな空間が、そこに配された趣味のいいモノたちによって非常に居心地の良い場所へと変化している。
昔から器が何となく好きで、最近は器のような建築、住宅っていいなと思っているのだが、そういう意味ではこの家はとても味のある器かもしれない。

ちゃきちゃきした感じの奥さんの手料理は非常においしく、ほぼビールの宴会は終電間際まで続きました。
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by shinichi-log | 2008-10-20 23:08 | daily | Comments(0)
Cruise Diary open!!
「Querycruise」のblog「Cruise Diary」がオープンしました。

Vol,1のレクチャーの予告編として、講師陣へのインタビューを順次掲載していきます。

現在は、五十嵐太郎氏、大屋雄裕氏(前遍)、佐藤守弘氏(前遍)という内容になってます。

特に大屋氏のインタビューでは、なじみの薄い法哲学にかんしてかなり分かりやすく説明していただき、また都市に関する内容でもあったりするので非常におもしろく、というか今までとは異なった観点から都市を視ることを教えてくれる。かなり長編ですががんばって読んでみてほしいです。

佐藤氏もまた、風景やトポロジーと言った建築や都市に絡んだ問題に盛んに言及されていて興味深い。特に風景が創られるメカニズムなどは、次回掲載する南後さんの問題系とも絡んでくると思われる。

もちろん無理に建築や都市に引きつける必要は無いのだけれど、私たちが存在しているのはこの「空間」という事実のために、どのような分野の物事も「空間(都市や建築)」の問題へと接近可能なのではと思わせられる。
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by shinichi-log | 2008-10-20 22:25 | Comments(0)
呼吸機械 by 維新派
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先週、いやもう先々週のことになるのだが、維新派の『呼吸機械』を観に行く。

最初に維新派をみたのが『キートン』だったから4回目、昨年の夏のワークショップ公演含めると5回も観に行ってる事になる。。。

前回から幾分テイストが代わり、物語がつよくなり、世界観が具象的になってきている。昔は白塗りの役者、それにバラバラにされ再構成された言葉と内橋さんによる音楽に、抽象的な大舞台セットという組み合わせが、維新はという世界観を強固に作り上げていたように感じるのだが、物語が先行する事で空間のつくり出す緊張感が背後に退いていっているのかもしれない。

とはいえ今回は、琵琶湖での公演ということで、その良さを最大限に引き出す事によって大掛かりな舞台セットによらない深みのある舞台を作り上げていたように思える。つまり舞台は琵琶湖の湖面を背にしているので、そのバックは空虚である。通常舞台のバックは劇場ならもちろんのこと屋外でもバックは背景の面は存在している。そしてその舞台の良さを一番引き出していたのは終盤に繰り広げられた大演舞だったようにおもう。いつのまにか舞台全体に水が流れており、そのしぶきなどの効果によって動きがダイナミックなものへと変化していく。なにより水を体にまとう事で、役者と湖とが連続する存在となり、どこか神秘的な雰囲気すら漂いだしていた。

前回夏のワークショップ公演でも、この時は山であったが自然と一体化するような不思議な時空間を見せてくれるのが維新派の最大の魅力なのかもしれない。それは、もともと「舞」がカミや精霊との交信に用いられたいた頃の記憶を宿しているのかもしれない。
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by shinichi-log | 2008-10-20 00:22 | review | Comments(0)
レクチャー色々
先週の事になるが、先に記した東浩紀氏のレクチャーの他にいくつかのレクチャーに出席。簡単に記録を記しておきたい。

まず、水曜日は、ある知人の主催の集会に参加。明治天皇の曾孫だか曾々孫にあたる人物(旧皇族、慶応義塾大学の講師)による主に皇室等に関わる話。当然と言えば当然だがオーラ無しのでも賢そうな青年。話の前半は歴史に関するおもしろ話で、後半やや右よりなかんじで違和感覚えつつも、普段聞けない話が聞けておもしろかった。どちらかというとかなり場違いな所にのこのこ出かけてしまったなーと。。。

木曜日は、ドイツから来ていた先生2人による特別講義inKIT。建築家のチェスナットさんはいくつかのドイツでのプロジェクトを紹介。どれも歴史的なコンテクストへの読み取りと、新旧が過度にコントラストを与えられる事無くなじませながら併存させていたのが印象的。日本等リノベーションとかになると、とかく新旧のコントラストを際立たせようという意図が見えるものが多いが、そこは伝統的にリノベーションに取り組んでいる国だけあって態度がおおらかなのかもしれない。もう一人ブライヒャー氏は、世界中のいわゆるSTARCHITECTと共同する設備系のエンジニア。SANAAのドイツの学校(RCで窓がたくさん開いている建築)やトレドのパビリオンなどで彼自身が取り上げられた事もあるので知ってる人もいるかもしれないが、その他にもヌーベルやザハやH&deM等の名前も。とはいうものの彼の行っている事は極めてシンプルで明瞭。そのアイデアは自然界の動植物、歴史的な建造物への観察を通して得られたものばかり。エンジニアリングの話にも関わらず英語が苦手な自分にも、十分理解可能だった事がそのシンプルさをあらわしているだろう。

それで最後金曜日は、mediashopでEveningLecture。「写真の余白に」という4回シリーズの最終回。今回のテーマは心霊写真ということで、始まる前から少しドキドキしてしまう。どうしてもこのように分析対象としてみる事に追って、心霊写真の恐怖館が脱白されてしまう感じはいなめない。そのおかげで最後まで画面を見続けれたのかもしれないが。フレーム内フレーム(入れ子構造)という過剰によって生み出される恐怖、もしくは入れ子の認識という現在の認識構造が、心霊写真から読み取れるというような結論だったような・・・怖くてよく覚えてません(嘘)

以上3点
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by shinichi-log | 2008-10-16 23:37 | Lecture log | Comments(0)
東浩紀×浅田彰
浅田彰氏が京都造形芸術大学の大学院長に就任されてますますパワーアップしていく造形大で、その浅田氏コーディネートの連続公開レクチャーが昨日からスタートし、第一回目として東浩紀氏がレクチャーを行った。

東氏と言えば批評空間によって浅田彰によって見いだされデビューした人なので、なんとなく両氏の間には師弟関係のようなものを想像していたのだが、実際は8年ほどは会った事も無かったというふうに、東氏がサブカル系オタク論に転向したある種の「裏切り」(浅田)を行った事によって随分二人の距離は広がっていたんだなと確認。別に仲が悪い訳ではないみたいだが。


浅田氏も早口だが、東氏もそれに劣らぬ早口トークで「社会契約と動物化ーオタク的公共性の行方」というタイトルのもとぎっしりとつまったレクチャーを展開。


導入・・・
近刊の『リアルの行方』での大塚英志との(驚くべき噛み合なさの)対談の話から、2人の認識の違い「動物化したら公共的じゃない」(大塚)vs「動物化しても、いい公共性を考えよう」(東)が提示され議論が進んでく。


「動物化」について・・・
本人自ら簡潔に説明される事で、解釈の幅の広い「動物化」という言葉の意味がクリアになっていく。そこで「動物化」を理解するための2つの文脈、「消費社会論的文脈」と「監視社会論的文脈」がしめされる。
前者は、コジェーブによって提示されたいわゆる歴史の終焉(世界や自己の〈言説による〉認識がないまま文化が消費される)後の世界に存在するであろう「日本型スノビズム(行き過ぎた形式主義)」と「アメリカ型消費社会」の話。東氏によれば、これは歴史が終焉したというより、世界の複雑性が増大する事で近代を支えていた〈幻想としての理念〉が維持できなくなっただけではないかということなのだが。現実には「アメリカ型消費社会」が支配的なモードになってしまっていることによる動物化。
後者は、近代的な規律訓練型の社会から、環境監理型への移行によって工学的に監視監理されていく主体という存在のあり方による動物化(人間園・・・)。
ただ東氏はこの現状を批判的に視ているのではなく、このような現状(大衆の欲望の集積の結果)に希望を見いだそうとすることに価値をおいている。


公共性と公共財・・・
そのような動物化理論を踏まえ、導入でもしめされた「公共」について話が移っていく。ここでは、「公共性・公共圏」と「公共財」という2つの公共概念が示される。
前者は、いうなれば「言論の空間」。各人が自由に発言できそれによって主体として認識し合うという、ハーバーマスやアレント経由の公共概念。
それに対して、公共財とは「消費において非競合性、あるいは非排除性を備えている財」のことで、灯台とか道路等がそれにあたる。つまり、市場の失敗を補う政治的な役割としての公共財の供給。(経済)
つまり一方は言論空間の事であり、もう一方は経済の事であってじつは関係性が無いと言うのが東氏の説明。そして先ほどの東、大塚の対立はこの2つの公共概念の差異ではないかという。

もちろん「動物化」によって言論空間としての公共性は成り立たない、というか関係がない。それに対して、公共財の問題は動物化した社会においてこそ可能性をはらんでいるのではないのか、新しい公共性の可能性が示せるのではないのかというのが東氏の主張である。(googleとかSNSとか。蓄積された情報がメ多次元での無意識的秩序をつくり出す・・・)


社会契約論に向けて・・・
以上の話を踏まえてこれからの展望が示される。それは近代社会論のマスターピース「社会契約論」を読み直す事だという。ここでは、今から読み直すと相当不思議な内容が書かれていて、現代社会を読み解くカギを見つけ出せるかもしれないという。このように、単なる現代文化論だけにとどまらない広い視野と教養を持ちえているのも東氏の魅力の一つなのだろう。


最後に・・・
浅田氏と東氏の討論の時間も持たれ、浅田氏が動物化した人間が一方で承認(他者とのコミュニケーションの欲求)を求めるのか、事態は「スノビッシュな動物」というふうになってるのではないか、またはポパー(現在)vsアドルノ(20c後半)の関係などにも言及。そして、芸術やデザインがいかにして存在しうるのかというとても興味深い問いが東氏に投げかけられた。ここで面白かったのは、アート等が存在するにはある種の理念(制度)のねつ造によってしかないということの他に、何がコンテンツかを区切る境界線が今問題ではないかという提示がされる。例えばニコ動などでもそこに流されている映像と打ち込まれた字幕があってそこにコンテンツがどこまでかという線引きは難しい。そういうふうに線引きの問題がかなり実際的になってきているとのことであった。
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by shinichi-log | 2008-10-08 05:34 | Lecture log | Comments(1)
コールハースは語る
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レム・コールハース (著), ハンス・ウルリッヒ・オブリスト (著), 瀧口 範子 (著)
近日発売。。。

前回、瀧口さんがだしたコールハースの本は追っかけ記事+関係者インタビューだったので、今回著者にコールハース自身がいるところに期待。
「建築的思考が世界を語り尽くす」らしいです。

ちなみに、最新号のstudiovoiceにハンス・ウルリッヒ・オブリストへのインタビューが収録されている。
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by shinichi-log | 2008-10-08 05:08 | Comments(0)



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