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SD
ひさしぶりにmediasopのEveningLectureにいく。
今回からは「写真の余白」というテーマのもと4回行われる一回目。
「指紋と写真」ということでその歴史的な展開と、同時に性質の変化等が語られる。

で今日SDReviewの案内が届いた。一緒にプロジェクトやっていた米澤君のむさんチームが「公文式という建築」でみごと入選。先月きょとんとした声で入選したと報告を聞いていたのだけれど、本当にすごいと思う。しかもかなりの確立で建つ計画案。今年で3回目のチャレンジだったらしくほんとおめでたいのだが、正直うらやましいしくやしいというのが正直なところだ。。。
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by shinichi-log | 2008-08-29 22:00 | daily | Comments(0)
モディリアーニ展
モディリアーニについて

中学生の時にモディリアーニの描く瞳のない肖像と出会い、以降長い間私は彼の絵に魅了され続けてきた。その時に買ってもらった肖像画のコピーは長らく私の部屋に飾ってある。しかし、モディリアーニの絵を見る事はこの上もない喜びであるのだが、同時にひどく不安な気持ちにさせられる。

それは彼の絵の魅力を感じつつもうまく言語化できない事によっているように感じる。そのアーモンド型の目や顔、長い首といったおよそ写実的とは言いがたい独特の表現、そして単純化され、様式化されているにも関わらず、肖像画のモデル達は存分にもしくは実在の人物以上にその個性を表出させていることが一種の矛盾をはらんで迫ってくる。過去長い間モディリアーニに関する研究が大々的になされる事がなかったというのもこの言語化できなさによっているのかもしれないし、同時に人気の在処も言葉にする事を拒むような魅力によるのかもしれない。


今回大阪で行われているモディリアーニ展には、かくれた主題、もしくは副題というものがあるようで、それはモディリアーニと「原始美術」の関係がいかなるものであったかというものであるようだ。それは、展示構成からも図版の表紙に[et le primitivisme」と書かれている事からわかる。

展示は、パリに出てきてまもないころのフォービズム的な肖像画、そしてスケッチブックの習作なども展示されており、原始美術に感化される以前のモディリアーニの作風を知る事が出来る点が興味深い。

そして次に「原始美術」から直接の影響を受け取り組みだしたカリアティッド人物像の一連の作品が続く。この時点でアーモンド型の目、単純な線で表されたフォルムなどのモディアー二特有の描き方が見いだされている。もちろんこれらは当時モディリアーニが取り組んでいた彫刻作品のために描かれたものであって、立体物を想定して描かれている。が結果体の問題から彫刻をあきらめざるを得ない状況になり、この彫刻に向けられていた実験が絵画へと注がれる事になる。

解説によるとモディリアーニは、流通しているようなボヘミアンな色男であったのではなく、「形而上学的で霊的な」知識人であったらしい。イタリア時代には古典からはじまるイタリア絵画の要素を吸収し、「原始美術」についても非常に熱心に研究をおこなっている。そういうイタリア的伝統を考えると、長い首や少し傾げた顔、卵形のフォルムなどというのは原始美術からの影響というよりかは、イタリア人としての素質、伝統によっているのではないかと思わさせられる。


とにかくモディリアーニは彫刻をあきらめ絵画に向かう事になる。そしてみごとにプリニティブな要素と古典肖像がの要素を統合、もしくは同居させる事に成功しているように思える。モディリアーニの絵は決して強いメッセージや態度を私たちに示さない。それは時に仮面ともいわれる瞳のない面がうみだす佇まいによっている。しかしながら仮面は原始社会の儀式用につくられた神秘的なものではなく、親しい人物へと向けられてたものである。シンメトリーをくずされデフォルメされた表情からは個別的な雰囲気が生み出されている。あえて瞳をえがかず、様式の中に当てはめる事で、モデルのもてる性格をにじみださせているのだろう。


それにしても、モディリアーニの描く女性は誰も彼も非常に魅了的で美しい。恥ずかしさを恐れずいうならば、何度恋をしそうになってしまったことか。。。それはまさしく言葉にできない言語以前の衝動なのだから。
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by shinichi-log | 2008-08-28 00:08 | Comments(0)
塩田千春展/国立国際美術館
大阪の国立国際美術館ではベルリンを拠点に活躍する塩田千春の大規模な展覧会が意開かれ評判になっているよう。
2年前に新宿のちいさなギャラリーでの個展に足を運んだこともあり、空間を大胆に使ったインスタレーションに前々から興味を持っていたので、非常に楽しみに見に行った。

国立国際美術館の地下にもぐっていく独特のアプローチを進むと、突然大きな赤い糸で出来た作品に圧倒される。これは一般の人から集めた靴を用いた作品であり、その扇上にならべられた靴に結びつけられた赤い糸が上空で一点に収束していく。視覚的にも非常に美しくインパクトを持ち、同時に誰かによって履かれていた靴達が異様な迫力を生み出している。

さらに右手の空間にはいくつものベッド(今まで誰かがいたように布団は乱れている)がおかれ、ここでは黒い糸がその周囲、そして部屋の影や天井にまではり巡らされている。不在のベッドに残る痕跡とクモの巣に絡めとられてしまったような空間が、非常な迫力と不安感を投げかけてくる。

塩田の作品には、記憶や痕跡というものが絶えずテーマとして存在しているが、そこでの記憶や痕跡はけして懐かしくメランコリックなものではなく、私たちを拘束し、不気味に存在する恐ろしい存在のように感じられる。ここでの黒い糸はまさしくそのような禍々しさを作り出しているし、浸食するような糸の広がりも心の中に浸食していく恐怖や不安を表しているように感じる。
先ほどの赤い糸と靴の作品も、多くの記憶が一つに統合されると見る事も出来るのかもしれないが、扇状に外側にひろがりながら赤い糸に繋がれている姿はまるでその束縛から一斉に逃れようとしているようでもあり、ここでも逃れがたい記憶や繋がりという不安を抱かせる。

もっとも感銘と衝撃を受けたのは、数年前の横浜トリエンナーレに出品され話題になった「After that-皮膚からの記憶」という巨大な3着の服が掲げられている作品だった。ここで巨大と書いたけれど、おそらくこの巨大さから来る印象は想像しても実感できるものではないと思う。私も何度か写真で見たことがあったのだけれど、それとは全く異なる存在としてそこにあった。もちろんその巨大さは遺跡のような荘厳さなどを作り出して入るのだけれど、みなれた服がまったく別なものとして現れてくる事にたいする驚きと不安、背後にある隠された世界の痕跡を感じさせてくれた。
その不安は自分のなかでうまく言語化できない感情によってうみだされる種類のものでもあると思う。

同じフロアで同時開催されているのは、宮本隆司と石内都の写真展示。どちらも記憶や痕跡という主題で作品を作り出している写真家であり、塩田のしめす記憶・痕跡と対比して感じてみるのも面白い。
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by shinichi-log | 2008-08-27 02:52 | review | Comments(0)
自由とは何か/大屋雄裕
著者は名古屋大学で法哲学を専門にしている大屋雄裕氏。
副題にある通り「個人」のあり方や監視社会を通じ現代における「自由とは何か」という非常に難しい問いに、法哲学的観点から述べられている。
近代が前提としていた自律的で主体としての個人という存在が揺らぐ今日において、「自由」な「個人」とは何かを問うことが本書の目的とされている。

一章では「個人」という存在と「自由」がどのように現れてくるのかが例を挙げながら示され、続いてそのような「個人」と「自由」が何によって妨げられるのかが述べられている。国家?共同体?・・・国家は現在の常識的な意識からすると私たちの自由を束縛する長たるものであるが、近代国家成立は中世的な共同体に縛られていた人々を解放し、主体的な個人として成立させたという事実に気付かされる。
そして著者はアイザイア・バーリンの述べる2つの自由を提示する。つまり自由に関して「強制の内容」と「誰が決めるのか」という問題を分け、前者を「消極的自由」後者を「積極的自由」という概念にむすびつける。もう少し分かりやすく言うと、「消極的自由」とは、制限されない、自分の思うままに振る舞える事、「積極的自由」とは自己実現の自由(ヘーゲル)、自由な意志にもとづいて公共な決定に参加する事になる。(後者は近代的主体というものを前提にしているのだろう。)
このような単純な2項対立への批判(井上達夫)や、積極的自由の暴走の危険(ナチや独裁)も十分考慮されるべきであろう。しかしここで注目しないと行けないのは「消極的自由」をかかげるリバタリアンの主張にも、自由は自然にではなく(自然は我々を怒らせたり混乱したりしない/ルソー)“誰か”の意思によって制限されるとされているが、本当にそうだろうかという問いである。今やこの自然ですら私たちを規制するように働いているのではないか?それがアーキテクチャ型権力(ローレンス・レッシグ)である。

次章では、レッシグによるアーキテクチャ型規制というものがいかなるものであるのかが、監視社会のあり方、データベースによるシュミレーション型のマーケティング(amazonのおすすめ)などを通じて語られる。つまりアーキテクチャ型規制とは「先取り」ということであって、行為の可能性をあらかじめ消去する事によって、知らない間に個人の自由を奪ってしまっているということである。(良く言われるのは、マクドナルドの椅子とか、寝転ぶ事が出来ないベンチ等)先ほどまでの議論と違い、誰かによって強制されるという事は無く、環境自体が規制されているのである。
そこにあるのはリスクへの予防や、必要な商品やサービスが迅速かつ適切に、そしてあらかじめ用意されていればという私たちの欲望によっている事が強調される。
であるから著者はことさらにアーキテクチャ権力を批判する事に有効性見いだしていない。それは私たちが望んだ事なのだから。
そこで著者は、事前規制であるか事後規制であるかの違いに目を向けるべきだという。事前規制(アーキテクチャー)と異なり事後規制においてはあらゆる可能性が開かれているのでそれは自由とは抵触しない。一見当たり前ではあるが、自由であることは当然ながら必然としてリスクを伴うということになり、そしてリスクが自由を奪うのではなく、リスクの排除が自由の排除に繋がると結論づけられる。

三章では、上記の議論を引き継ぎつつ刑法という観点から議論が進められる。そこで展開されてきたのは「事前規制と事後規制の対立、あらかじめリスクを排除していくシステムと個人の行為のあとでその責任を追及していく制度の対立」であったと記される。そして、著者は事後的に責任を負う事によって、行為者は偶然的・確率的にその行為に追いやられた客体ではなく、積極的に自由な選択をした主体としてあらわれるのだと主張する。しかし、功利主義的な立場からすると、近代的な主体というフィクションによるよりも、アーキテクチャ型権力のほうがより私たちに快楽や欲望を提供するのだから、主体というものに固守せずとも積極的にアーキテクチャによる規制をすすめるべきなのである。しかし筆者はこの提案に魅力を覚えつつも、アーキテクチャが誰かによってつくられている限り悪意の暴走をはらんでいるし、完全でない予測に浸るよりかは、むしろまだ多くの人は自分自身を自由な主体として想定していきたいと願い、そのことに気持ちよさを抱いているとする。そして責任を引き受ける事によって自由というものが発生するという〈擬制〉はまだ信ずるにたるのではないかと主張する。

自由という捉えがたいものに一定の定義を与えているという点では評価できるのだが、では、もう少しこの増大するアーキテクチャ型権力に対しどのように対処すべきなのかなどについても知りたいところである。
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by shinichi-log | 2008-08-26 02:25 | review | Comments(0)
スカイクロラ
押井守の最新作「スカイクロラ」はしょっぱなから始まる空中戦闘シーンが圧巻。
これは実写をこえた解像度と表現。CGではなくあくまでアニメ絵かつコンピュータを駆使する事で、今まで以上に迫力の時・空間の描き方がされている。それにつづく雲の絵も非常に美しい。とはいえどちらかと言えばゲームのような質感の絵。特に飛行シーンの背景など特に。

キルドレをめぐる生と死と愛の物語と行ってしまえばそれまでではあるが、「明日死ぬかもしれない人間が大人になる必要はあるのか」という台詞にドキッとしてしまう。素子顔負けの水素(このキャラと名前の類似は一体、整備士のおばさんはバトーだし。。。)とのロマンスにはあまり感情的に入って行けないのもまた事実。それよりかは、たの飛行士達との交流のほうがよほど物悲しく切ない。
毎日が永遠に繰り返されるなら、いつどこでリセットされようが悲しむ必要などあるのだろうか?
少しこじつければ、大人になりきらず、ただ同じような毎日を繰り返して生き、どこかで見た事があるキャラを演じている現代の日本人の姿に重ねる事も十分可能だろう。

攻殻機動隊やパトレイバーのようにある種の世界観が強くおしだされるというのでは無く、物語を引き立てるように多少趣味的な情景が描かれている。そのどれも十分趣味が良く洗練されている。大人な趣。まさにドラマを引き立てる背景。
押井ワールドのファンとしては少し物足りなさも覚える。
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by shinichi-log | 2008-08-23 19:41 | Comments(0)
そろそろ秋の気配もただよいはじめ
送り火も過ぎ、京都は幾分かすずしくなってきた。

連日猛暑日であった8月前半は、あついあついと言ってブログの更新も放棄し、ほとんど京都から出ず・・・とけてました。その間、京都でAkaneちゃんの歓送会を催し、恒例古本市で古本マニアのおじさんの迫力(特売のおばちゃんといい勝負。人間の本性か?)に驚きつつも負けじと古本を買いこみ、帰省中の同期と久しぶりのaloaloで飲み、長野に用事で行って伊東さんのホールに侵入、ベルリンから帰国中のkensukeと再会、一昨日はスカイクロラみて、昨日は神戸に横尾忠則展をみにいく。

行きしなによった旧兵庫県立美術館(村野藤吾設計)のあまりにももったいない使われ方に憤りつつ、取っ手のディテールとか小さなソファに萌えてみる。一回はガラス張りの開放感あるピロティーで、点でさせられているマッシブな2階部分がうまく対比され、ゆえ軽さが与えられている。2階にあがっていくスロープ部分はいかにも村野らしく、洞窟のような空間と、奥行きのある開口がみられる。本建築の見せ場。
それにしてもすごいエントランス。
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横尾展はあまり乗り気ではなかったのだけれど、「名画」シリーズを見てから俄然おもしろくなってきた。ある見方を手に入れるとそれまで見たものも新しい感覚で受け取る事が出来るということを実感。見終わってから公開制作を少し覗く。24日までですが時間のある方はぜひ。
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三宮に来るのはなんだかんだで年一回くらいなのだけれど、これにはびっくりした。
高架をくぐるといきなりジャック・タチの『僕のおじさん』まがいのパリの街が・・・
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通常こういうものはSCのような巨大な室内空間の中や、テーマパークのような一定のエリアの中でつくられるように思うのだが、これは完全に都市に対して開いている。閉じた空間を担保にしなくても、このようなシュミラークルな建物が成立してしまっている。結婚式ようの教会がハリボテの古典主義やなんやらで街中に建っている事はあるけれど、街に対してというよりかはトータルとしての結婚式のイメージを作り出しているのに対し、内部はモダンな今風のインテリアとなっているこの商業施設にはそのような内部志向は無い。これほど大ぴらにシュミラークルが成立してしまうが今の都市空間の現状か。。。脈略のない夢の浸食。。。まるで横尾忠則の世界。

それにしても横尾さんの絵にひさしぶりに感動。
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by shinichi-log | 2008-08-22 23:11 | daily | Comments(0)
イワン雷帝
昨日京都ではこんな屋外上映会がありました。
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京都近代美術館の搬入口横にある駐車スペースを使ってエイゼンシュテイン監督の「イワン雷帝」1、2部が上映。「戦艦ポチョムキン」で映画史にその名を残したロシアの巨匠が最後に挑んだ大作。2部はスターリンにより上映禁止の処分を受け長い間非公開になってしまい、やっと公開されたのはスターリン死後。つづく3、4部はその素材のほとんどが破棄されるという結末を迎えたそれ自体壮絶な映画。ストーリーはロシア初代皇帝イワン4世の栄光と孤独、悲劇、狂気を描いた壮大なストーリー。劇的なクローズアップや、シルエットの使用、厳密に構成された画面構成が美しく、エイゼンシュテイン監督の画面への独創性や、きわだった心理描写に、徹底した美意識を感じられた。
悲しい男イワン雷帝・・・
映画史上の影響はともかく、今見ても十分楽しめる大作でした。

それにしても、たいして宣伝もされていないだろうに、この映画に200人近くの人が集まっていたことに驚いた。
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by shinichi-log | 2008-08-02 21:14 | daily | Comments(2)



日々の何かについて、建築・デザインなど
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