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fun palace
東京にあるTaka Ishii GallareyによるZin.
「fun palace」
出版は去年だけど、第一号の特集が「日本の若手建築家による建築/ランドスケープ」ということで田根剛、三島由樹、高橋真人ら海外で活躍する若手建築家のインタビューが収録されている。

日本のメディアにある流れとは、テイストの異なる力強い内容。
世界を感じさせつつ、日本をも相対化してくれる。
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by shinichi-log | 2008-06-30 22:50 | Comments(1)
Lecture log 6 ken-vi セミナー
この前の土曜日は、兵庫県立美術館でken-viセミナーが開催された。
コーディネーターを古山先生がされており、また内藤廣、西澤立衛という魅力的なプレゼンターがそろっていた。古山先生とはこんな機会でもなければ挨拶をする事が出来ないので、そういう意味でも貴重な機会。

テーマが「美術と建築の対話」ということなので、内藤、西澤両者ともに自作の美術館の話が中心にありつつも、話題の幅の触れ方が異なっていて面白かった。

内藤さんはのレクチャーは「美術と建築の不健全な関係」と題されており、どちらかというと制度としての美術館、もしくは建築とアートの関係について語られる。

まず、美術館というものは本来見世物小屋でしかなく、美しいものというよりはもっと理性を超えたところに訴えかけてくるモノを見せる場なのではないかということ。
さらには、近年の収蔵品を持たないギャラリーとしての美術館への懐疑。そうすると結局どうなるかというと、借り物の企画展ばかり→すべてに対応可能なニュートラルな空間という図式しか成り立たなくなる。それは、アート自体の流通可能性やマーケット性を強化する事にも繋がっていくのではないか。そうではなくmuseumはむしろ収蔵にこそ力を入れるべきであって、価値あるものを後世に伝えてくことを重視するべきだと。

建築とは社会的な存在であり、美術はもっとやむにやまれない個人の想いの結晶であって、反社会的なものであるべきである。デザインはhappyへしか向かわないが、アートは、痛さや苦しさを提示できる。だからこそ建築の持つ欺瞞や偽善を暴き、批判していく存在であるべきではないか。アートと建築は幸福な関係を持つというのではなく、アートという視点からたえず建築を批判的にとらえていくような関係性が重要ではないかであった。前衛の顔をした保守への懐疑。

その他に内藤さんのとてもナイスな発言は、質疑の時に近代建築の保存問題などにふれた折の「愛の強度」という言葉だろう。それは建物が物理的に丈夫かどうかではなく、多くの人にどれだけ愛されているのかというのが保存問題を考える上で最も重要ではないかという意味。建築家が本当に考えないといけないことを教えてくれているような気がした。

西澤さんはnaoshmaの美術館から森山邸、HouseA,十和田アートセンター、NewMuseumについての講演。ほぼ作品の解説の内容だったのだが、アートとの関連した内容を取り出すと、「環境」というキーワードがあったような気がする。それはecologyでなく、風景に近い意味での「環境」。環境としての美術館、展示室というものを目指している。noshimaでは輪郭をなくす事で「空間」を「環境」へと変容させている。空間たりえない、中性な場所性をもった空気、それが「環境」なのかもしれない。NewMuseumを写真で見た時、何か新しい展示空間が出来たんじゃないか思った記憶がある。新築という条件の中、ホワイトキューブやニュートラルな展示室におちいることなく、かといって記号性によって場所性がねつ造されるのでもない。それはホワイトなもしくは中性な場所性と言えるかもしれないと感じた。そういう感覚と環境というのは繋がるのかもしれない。
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by shinichi-log | 2008-06-30 18:29 | Lecture log | Comments(0)
Dots showing
夜、京都芸術センターでパフォーマンスユニットのDotsのショーイングをみる。
passageという同センターでの一連の企画の一つ。

ただ音楽ののりに合わせて、なんとなく踊っているようにあるけれど、お互いが少しずつ干渉し合って、展開していく感じがおもしろく、続く現代音楽のような不協和の非構築的な音楽では、ダンスはディスコミュニケーションの様相を呈していき、三者が独立してなおかつ散発的に体を動かすというもの。そして、ノイズ、ミニマル音響、ヒーリングというふうに音楽に合わせ、表現が変化していくさまが非常に面白かった。全体を通じて動きもどこかコミカルで、うまく言えないけれどみていて非常に楽しい公演。明日も昼と夜に上演されます。こちら。。。

その後、昨年できた三条ちかくの「さらさ」へ。
一階のカウンターも二階の座敷もいい感じのお店です。


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by shinichi-log | 2008-06-28 00:36 | Comments(0)
Lecture Log 5 - Evening Lecture Kyoto vol.4
Evening Lecture Kyoto vol.4 the intersection of FASHION』(Part.2 ひろがりの20世紀) the intersection of FASHION』(Part.2 ひろがりの20世紀)

前回は「始まりの19世紀」ということで、都市の近代化とそれに伴うメディアの変化、そしてファッションを取り巻く状況の変化というものが紹介されたが、今回はその地点から20世紀を通じて上記の3領域がどのようにそのクロスフィールドを拡大させていったのかが語られた。

1900年代・・・コルセットからの解放(ハイウエストかつ直線的なライン)。器具による矯正から体自体を作り替えようとするベクトル(見えないコルセット)の誕生。

10年代・・・ファッション写真の誕生。理想のイメージとしての表象を自らに取り込もうとする。(見えない自分、理想的イメージの自分)。

20年代・・・機械、速度、直線という価値観→身体への価値観の変化(日焼けした肌、やせているということの価値の誕生)
・Garconne(少年のような-女性)→20年代の女性イメージ(直線的、痩せ形の身体)
・Manuequin(もともとは少年モデルの事)の誕生→イメージとしての理想的な身体
が人形として作られる。
・人工物(イミテーション)への憧憬/ストッキングの誕生(化学物質であるナイロンで肌を覆うということ)

30年代・・・マン・レイ、ホルストによるファッション写真→モデルだけでなく背後の空間の重要性。モデルが画面の一部になる。(イメージ強化のための作られた世界観)
・エロティシズムという価値観(女性の肌が表現の要素となる。)

40年代・・・WWⅡによってパリの影響力低下→アメリカの台頭(既製服のデザイン、サイズの標準化)
・カラーフィルムによる色の多色化、多層化。
47年「Newlook」Diorのデビュー・・・コルセットの復活(男性から見たフェミニンの復活/それまでは2度の戦時を通じて、女性の社会進出や合理化の動きの中でセクシャルな表現は押さえられていった。以後、理想の身体の肥大化と縮小かの振動。)
アメリカを意識し、マス身体へ意識をむけた。高級プレタポルテの誕生。ラインのアイコン化。

50年代・・・「Glamour」(大衆へのファッションメディアとして映画→映像の中の身体→時代の身体)。playboy創刊など。マリリン・モンロー

60年代・・・「Twiggy(小枝)」スレンダーな体へ。(Newgenerationの誕生、消費層としての認識、ストリートの発見/ミニスカート)
plastic age・・・化学繊維の一般化(popな色、成形からくる丸みのあるフォルム)→プラスティクな身体。
ディズニーランドの誕生(55年)・・・永遠の現在の追求→プラスティック化、表層への意識の集中、管理)ーーー→Shoppingcentreへ舞台としての表層の商空間。

70年代・・・フォークロア(産業かの中で様々なものがファッション化して(差異化の道具として)表現に取り入れられる。→意図的に生臭さや意味を剥奪、表層的な扱い。

80年代・・・nudeのファッション化→「Bodyconscious」。当初は男性からの視点から逃れるために鍛えるという意識だったのが、造形の対象としての身体へと変容。→可塑的な身体(身体が自由に変化できるという意識の誕生。過去の相対化、ポストモダン)。→現代に続く価値観(fitnessやダイエット、整形)
・マネキン→スーパーモデルへ 支持隊としての身体の前景化。

90年代・・・real あまりにもハイパーになった身体への反動?→現実の私の身体
「生理的なもの」「生々しさ」の表出。とはいえそれらも意味を漂白されている。
プラスティックで覆うことで価値の逆転が起こる?

20世紀を通じた問題意識は、前回に引き続き「生理的なもの」をどんどん剥奪し、表層の情報だけに還元していったというものだったと思う。その徹底が、プラスティック化であり、デイズニーランド的なスペクタクル都市である。

では21世紀には?デジタル?すべてが交換可能になる?
ということで次回に続きます。

後談・・・レクチャー後に、講師の百先生から、身体と都市の関係をつなぐピースをファッションの中に見いだす事が出来ないかという問題意識があって、三者のつながりを考えておられると伺った。建築とかと異なりファッションという分野では未だに時系列的な歴史観のみで、仮説のもとにくみ上げられた理論や歴史観というのはまだまだで、だからこそ他の分野との間を埋めるピースとしての価値が(一番身体に見時かな分野であり、ずべての人に親しみのある)ファッションには可能性としてあるのではないかということでした。
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by shinichi-log | 2008-06-27 18:24 | Lecture log | Comments(0)
雑を楽しむ雑誌
magazineの醍醐味はやはりいろんなモノや事が「雑」に含まれている事だなと、「エクス・ポ」をよみながら感じた。

「エクス・ポ」は佐々木敦が作った超濃密雑誌で、表紙をかねた封筒に入って売られたり、届けられたりしている。醍醐味はなんといっても、編集人の好きと想いがこれでもかというくらいに詰め込まれたアナログかつアングラな感じ。とにかく濃い誌面。

いわゆるISBNコードとかついてないから、zine的な扱いなのに、最近では普通の本屋でも手に入れることが出来るからすごい。自分も、烏丸の大垣書店でみつけて購入したのだけれど、店員さんがレジうちで困ってました。

ところでなぜ「雑」がいいのかを少し考えてみたいと思います。別に考える必要も無いのだけれど。
まず未知の世界との「出会い」があるということ。別に「エクス・ポ」でなくても雑誌には特集記事の他に必ずコラムとかレヴューとか、小特集記事とかあって、関心の無い情報に接する機会が増える。インターネットだと、無限な出会いがありそうで実は自分の興味のある分野だけで閉じてしまう。雑誌だと買った手前、興味なくともとりあえずは暇な時に読んでしまうという事を通じて見知らぬ情報が届けられる。ある意味誤配がおこってくる。で、「エクス・ポ」は、幾分論壇風ではあるけれど、そんな誤配だらけの内容です。もちろん読まない事には届かないんだけれど、この雑雑した感じが、雑誌としてとても清いなと感じます。

「雑」のよさもう一つは、距離感が自分で作れるってことだろうか。対象との距離感や関わり方を自分で選択できる。都市の中で言うと、国会議事堂まえのような整然とした場所や、純文学のようなモノには、一つの見方、読み方、接し方(感じ方はまた別)が存在している。のに対して、東京の繁華街などでは、どう進もうがどこにまず立ち寄ろうかが自由になって、その街の要素に対して自分で接し方を帰る事が出来る。

これ以上書くと苦しくなるのでこのへんで。また続き書きたいですが。

このblogももっと「雑」としていくのがいいのだろうか??
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by shinichi-log | 2008-06-21 19:01 | Comments(2)
配布、など
何度かアナウンスしていた研究会で作成したフリーペーパー「rice」が、mediashop,
南洋堂、柳々堂などで配布されだしました。

行く機会があればぜひ手に取って読んでみて下さい。

最近は実施の図面作成と、バイトと、webマガジン企画の準備でやたらと時間がない。
すべて慣れない事なので時間がかかって仕方が無いからかも。
とはいうものの今日は広島から帰京していたnisicoと昼間移転したさらさへ。前回と同様のテイストではあるが、座敷のような席とそれにあわせて低い位置につけられた窓が良い感じ。

ディテールの最新号の小特集は建築家の新関謙一郎。殻とそれに穿たれた孔という構成のテーマをもとに作られた4つのプロジェクトが掲載されている。手書きのドローイングも美しく、またミニマムな構成の美しい建築。初期の三分一さんのような、確かなディテールと表現が実現されていてかっこいい。

もしかしたら大学で設計に関係ないバイトする事になるかもしれません。これでうろうろしてても平気な顔をしてられる。
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by shinichi-log | 2008-06-18 23:55 | Comments(0)
Lecture Log4~kyoto Evening Lecture vol,2 山崎 亮/studio-L代表
kyoto Evening Lecture vol,2
『人口減少時代のデザイナーはどうやって仕事をつくりだすか。ランドスケープデザイナーによる新たな試みを通じて』
講師:山崎 亮/studio-L代表

今回の講師は、『マゾヒスティックランドスケープ』の著者であり、さまざまな公共プロジェクトに関わり、デザイナーとしての職能を拡張し続けておられる山崎亮さん。数年前にarchiforumのコーディネーターをされていたので知ってる人も多いかもしれない。

山崎さんの活動は、ただのデザイナーという域をこえ、様々なプロジェクトにマネジメントから関わり、ソフト面やプログラム面での取り組みを通じた空間の使われ方、市民との関わりかたをデザインされている。今回のレクチャーでも、単にお話を聞くというだけでなく、ここがまさにそのような人と人の関わりが発生する場になるために、その場にいた聴講者全員が軽い自己紹介をするという取り組みがなされた。少し戸惑ったが、その場にどのような方が集っているのかが分かる事によってなんとなく一体感が生まれるし、それによって山崎さん自身も話す内容が微妙に変化していくというのがおもしろかった。

レクチャーは200枚をこすスライドのもと、限られた時間でかなり駆け足で行われた。まずこれからの日本の人口の構造が示され、人口増加時代から人口減少時代への変化、それによって建築、特に公共建築の状況がどう変化するのかが示された。当然のことながら高齢化社会のなか、新設の公共事業は減り続け、修繕費、維持費は増え続ける。国土交通省の試算ではショックな事には、維持費すらまかなえ無いケースすら出てくることになっている。かつて巨匠の時代にはただまっていれば仕事は来たかもしれない。けれど確実にそんな時代にはない。ではどうするのか??


1つめは、海外に出て行く事。前回のレクチャーの井関さんがよい例だと思うけれど、中国や中東などグローバルに展開して新しいデザインを作り出していく事。
2つめは、リノベーションなどを行っていく。
3つめは、つくるからつかう(だったかな?)

で、山崎さんが取り組んでいるのは3つめ。
まずは、プロジェクトを作り出す事。そうしたソフトの形成の中から本当に必要なハード(建築だったりランドスケープだったり)に繋がっていく。studio-lではほんとに多くの企画書(デザイン事務所なのに!)を書くそうだ。当然採用される確立は低いけれど、アイデアのストックや「次の機会」というものを生み出せる。

そしてそういうマネジメントをすることから一歩進んで、今あるものをいかに使うのかという考えに向かう。使い方のデザインという話になるのかもしれないけれど、様は著書のマゾヒスティックランドスケープというタイトルが示す通り、人々が主体的になる事で、モノやランドスケープが受け身な状態をデザインする事なのだろう。OSOTOという雑誌や、町おこしなどにも生かされている。

話の中で個人的には、「Teambuilding」というプロジェクトに関わる人間をどうまとめるかという話が気になった。ここをうまく組み立てれれば、チームが主体的に行動し始めていく。そうするとそのプロジェクトへの関わり方を調整し、別のプロジェクトに時間が割ける。非常に見習いたい部分である。



そんな山崎さんにもロールモデルとして、oma/amoの存在は大きかったようだ。そこで思ったのが、デザインとマネジメントというのは切り離せないけれど、けして同じ平面で連続してはいけないということ。コールハースがAMOにマネジメント機能を付加せず、切り離してAMO を立ち上げたように。デザインするというのは、与えられた条件から(デザインに置ける問いを見つけ)答えを見つけ出す行為で、マネジメントやデザインというのはいかに問いを見つけ、解決のために必要な与件を見いだす事だと思う。だからマネジメントが問いならば、回答はモノを作る以外にも様々あるだろうし、それがモノを作るという事であれば、そこでデザインがどう答える事が出来るのかが必要になってくる。

通常、建築学科の課題に置いては、自分で問題を見つけ出し、それに対する回答をどのようにして建築で表現するかが必要となる。そのような、問いを見つけ、回答を出すという訓練をしつづけるarchitectという職能は、モノを作る以外の場面でもその能力を発揮していく事が出来ると思う。ただ建築を作るだけがarchitectの職能ではない。建築が建たなくなる時代の中でarchitectの可能性は逆に広がっていくのかもしれない。
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by shinichi-log | 2008-06-16 21:50 | Lecture log | Comments(2)
monochrome circus
京都を拠点に活躍しているダンスカンパニーmonochrome circusの公演が近所でやっていたので見に行った。以前から、彼らが実践しているダンスの方法論に少し興味を持っていてどういう空間とコミュニケーションが作り出されるのか興味があったからだ。

その方法論とはコンタクトインプロヴィゼーションと言うらしく、簡単に言えば一緒におどっているダンサー相互のコンタクトによって作り出される即興性とでもいえばいいのだろうか。自分の感性のままもしくは身体的解放からくる即興的なダンスではなく、常に他者性が混じる事で引き起こされる非予定調和性と、他者性を介したダイナミックな関係性の構築が引き起こされる。

ダンス自体は、そんなにうまい事言ってる訳ではなかったけれど、建築などを考える場合でも非常に魅力的な方法論だと思う。例えば、建築家と施主、空間と使い手、場所と機能など、一見するとトートロジカルに閉塞してしまう関係性を突き破るような、ダイナミックな関係の構築?
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by shinichi-log | 2008-06-15 04:42 | Comments(0)
Lecture Log3~ピーター・メルクリ講演@東京国立近代美術館
先週末に開かれたスイスの建築家ピーター・メルクリの講演会のLog

まずありえないという日本での講演会。開場前から行列ができ、席もすぐに満員になっていました。ちょとしたアクシデントから、メルクリ氏の希望もあってかつての教え子でもあるアトリエワンの貝島さんが、最初(初)通訳を勤める事になるという場面もあり、それはそれでとても貴重な体験であったし、メルクリ氏の人柄を伺い知る一場面となった。

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講演は、2つの建築、代表作の《彫刻の家》と新作の《ノバルティス・キャンパス・ビジターセンター》について語られた。両者に共通するのは、周囲のランドスケープとの密接な関係性の取り方と、素材のセンシティブな用い方にあるののではないだろうかと感じた。

《彫刻の家》は、ある種自然の中にコンクリートのboxが孤高にかつひっそりと佇んでいるような印象を受けるが、実際建築は周囲のランドスケープと密接な関係をのもとその形態が決定されている。それは目地の扱いにまで及び、非常に長い時間をかけられた。プランを見ると、シンメトリー性があえてずらされ、3つのヴォリュームをつらぬく開口がアシンメトリーに配置されている。またそれぞれの天井高も変化している。それはランドスケープの上下に異なった川との対応や、内部にも空間や光の濃淡が微妙につけられる事になという。「風景を引きつけ、はなしていく(メルクリ)」。
そのようなシンプルさは、周囲の風景と結び合う(関係づけられることで結びつきが生まれる)事で多様な表情を持つ事になる。

そのような建ち方の話以上に印象深かったのは、素材の扱いについてであった。コンクリートの仕上げは、きれいにし上げる事よりも、石のように自然なものとして扱われ、完璧さを求めるよりも素材の持つ官能性を引き出すことが重要とされているという。そしてそのために、目地が雨によって浸食されることをも考慮されているという。それは単なるきれいさとか、新しいという概念を超えた、情感豊かな美しさだと思う。

インテリアに関しては、展示に即して意図的にデザインする事は無く、偶然性を受け入れ、そこから事後的にどう展示していくかを考えるという話であった。この部分は同時に展示されている青木淳氏と共通するような考え方なのかもしれない。


《ノバルティス・キャンパス・ビジターセンター》
さきほどの《彫刻の家》とは大きく異なり、バーゼルという都市の中の製薬会社の敷地内にたつビジターセンター。世界中の建築家(sanaaとか)がofficeなどを建てている中の一つとしてたてられており、隣接するのはDiner&Dinerの建築が建っている。

ここでも周囲のランドスケープとの関係が語られ、隣接するDiner&Dinerの建築が色を多様していることから、アルミのファサードはゴールドに塗られている。この状況的な対応は、ゴールドは絵画の額縁から着想を得てニュートラルなものとして提示されている。また、トラバーティンは元あった建築とのレファレンスを保つために使われている。ノバルティスでは多様な素材の融合によって、センシャルな質感が作りだされているようだ。
また、スペースのあり方についても語られ、オープンスペースの中のプライベートな場所の重要性が述べられた。例えば、それぞれのオープンスペースには、異なった趣向の家具がおかれそれぞれの場所性をつくりだしているし、またトイレがプライベート性を保てる空間として特に重要視されデザインされたという。

最後に、無限にある形態の可能性の中からどう決定していくかの問いに、ボードに図を描いて熱心に語られた。それは自分なりに語り、決定する枠組みを作り上げる事につながっていくという。

メルクリの建築は、素材や風景との絶え間ない対話の中から、そしてじっくりと時間をかけた自らと建築との対話(展示されている多くのドローイングもその一旦なのだろう)の中から立ち上げってくる。決して感性だけにもまた理論だけにも偏らない、物の根源まで立ち返りつつ組み立て上げられる建築と言う結晶であるように思われた。
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by shinichi-log | 2008-06-13 19:37 | Lecture log | Comments(0)
still/motion
国立国際美術館で開催中の液晶絵画展に行ってきた。
まさに映像と絵画という狭間にみえてくる、時間をめぐる様々なイメージを様々な形で見せてくれる作品群。それは単に映像でも絵画でもない、絵画という空間に時間の概念が加わる事によって引き起こされる全く新しいイメージがつくりだされており、非常におもしろい展示だった。

細かい作品の紹介はさておき、時間という概念と動きというのは密接に結びついているように感じるのだけれど、改めて気付かさせられたのはその時間と動きの結びつきの自明性の危うさだった。motionなき時間、時間なきmotionを提示される事で、実はそれぞれがより浮かび上がって見えるということ。液晶絵画として、作品が自明の不動性をもつ絵画といやがおうにも対比される事で、また静止という概念が映像に加わる事で、純粋に時間が現れてくる。

「静物とは時間である」「変化で満たされた不変の形態」byドゥールズ
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by shinichi-log | 2008-06-13 17:55 | Comments(0)



日々の何かについて、建築・デザインなど
by shinichi-log
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