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院の2年
実施のスタディーに昨日から4回生メンバーが参加。人数かけるとスタディー模型がたくさん出来てくるので検討がスムーズ。一人でああだこうだと悩んでる時間が短縮される。

とはいえ、壁量、梁せい、サッシの納まり、などなど悩みどころは盛りだくさん。
来週末無事に東京に行けるか不安。

4回生といると院試の話題が必然的によく上がってくる。自分の時よりも相当状況は厳しそうで、危機感が結構すごい。すでにワンデーも始まっているらしい。

で、院生という貴重な時間をどのように過ごすのがいいのか?工繊の設計学専攻は、カリキュラムが増えてやることがどんどん増えていく方向にあるらしい。修士計画もレジメ50枚になったらしい。しっかりと面倒見てくれるようでいい気もするが、そうなったらほんとに学校の事だけで時間が終わってしまう。それはせっかくの大学院の2年間の過ごし方としてはどうなのだろうと思ってしまう。学部の時はそういう風に課題に終われ数をこなしていく事はある程度大切かもしれないけれど、院にまでなって同じような事を続けていくのは、もったいない。せっかく2年間社会に出る猶予を与えられているのだから、本をゆっくり読み知識を増やす、じっくり物事を考えるなりして、自分の建築に対する姿勢やスタンスをきちんと見極め掘り下げる事に時間を費やしていく事の方が必要なんではないだろうか?

自戒を込めつつそんなことを思ってしまった。
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by shinichi-log | 2008-05-30 23:48 | Comments(0)
IKEA/H&M
Ikeaに行きたいと思いつつずっと行けてない。
少し遠いし車が無いと買っても運べないので、条件が合わないと行きにくい。
それにしても、Ikeaの出現によって日本のインテリア家具業界は結構しんどいんじゃないかなと思ったりする。これからもどんどん店舗数は増えていくだろうし、認知度も広まっていくから。なにしろ安いのにデザインされてる。さらにパーツ売りしてて微妙に工作心をくすぐるし、きちんとライフスタイルの提案をトータルでしてきているのでマーケットでも強いだろう。
僕はドイツにいる時に一日がかりでIKEAに行った記憶があるのだけれど、ショールーム+倉庫という店舗構造はかなり革新的で、夢を与えるところは与えておいて、裏側の仕組みの部分もみせて、という割り切り方というか、でもそうすることで自分で物語を組み立てていくようなわくわく感がプラスされる。

もう一つ北欧のデザインが日本に進出してくる。H&M(通称エイチアンドエム、正式にはヘネスアンドマウリッツ)が、今年の秋に銀座にオープンする。GAPにつぐ、世界2位のSPA企業で売上高は1兆5660億。ユニクロが3936億円だから桁が違う。
しかも、これまでカールラガーフェルドや、マドンナとのコラボ商品などを企画してきたように、日本では川久保玲とのコラボレーションを実現させている。と言うふうに川久保玲が同意するくらいのデザインに対する意識の高さとセンスを持ち、かつ低価格。
ユニクロのような安売りではなく、いいデザインを手に入れやすい価格でという感じで、けして安売りのイメージは無い。きっとファッションのほうでも、日本の企業は苦労しそうだ。

IKEAにしろH&Mにしろ、共に北欧の企業という事で改めて北欧デザインの強さを思い知らされるし、どちらも日本向けにあわせてくるのではなく、世界中でおこなっている自分たちのスタイルをそのまま持ってくるところが興味深い。確固たる自身のあらわれなのか、ブランド力の使い方が上手なのか。「ファッション(ライフスタイル)はグローバル」という考えをもとに、微塵の疑いもなかなく世界中に突き進んでいく。こういう姿勢をどう評価するかは非常に難しい。多様性や文化の破壊だと決めつけては何も始まらないし、実際商品を買って、暮らしの中に取り入れていくだろう。確かにいいデザインなのだから。

このように世界が単一化していく事は、実はある程度仕方が無い事なのかもしれない。
歴史とはそういう、いろいろな考え方や差異が、どんどんまとまっていく過程なのかもしれない。小さな家族の集団だったものが、部族になり、小さな国のようなものになり、戦争や統合によって現在の大きな単位での国が出来上がって、そしていま、国というものから世界へと統合しつつある。ならばグローバル化して、様々な文化が統合されていくのも、進化であって悲観すべきことではないのかもしれない。
そしてまた、いくら統合しようともそれまでの集団の痕跡は必ず消え去らず残っていくものであり、差異もまた統合とともに生き続けていく。

話がそれたけれど、安い商品が大量に出回るのではなく、いいものが大量につくられ世界中に普及していくということをどう考えるか。IKEAとH&Mはそんなことを思わしてくれる。
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by shinichi-log | 2008-05-29 23:53 | Comments(0)
Lecture Log 1~都市とメディアとファッション
昨晩はmediashopのEvening Lecture vol,2に行ってきた。

テーマは「都市とメディアとファッションと」ということで神戸ファッション美術館の学芸員の百々徹さんが講師をされた。全3回という事で、今回は19世紀のパリについて、ファッションと生理現象という相容れない要素の現れ方の変化をたどりながら、都市の変化、メディアの変化、それによってファッションをめぐる状況がどのように変わっていったかが主なテーマになっていた。

汚物都市パリ
19世紀中頃までパリは未だ中世的都市構造のままで、上下水道は整備されておらず、スラムや貧民街がひしめく、危険で汚い都市であった。汚物は道ばたに捨てられ、死刑や死体解剖が道ばたで行われるという状況で、また屠殺場も都市の中に存在するといった、今では考えられないほど生理的なものにあふれた場所であった。当時の世界の中でもパリの臭さはぴか一だったらしい。こういう話が最初15分くらい続いたため幾分気分が悪くなってしまった。

中世から近代都市へ
それが、19世紀中頃第2帝政期になり、オスマンがパリの大改造を行う。これは、それまでの中世都市から近代都市への一大転換であり、ただ都市の改造にとどまらず都市に住む人間の意識すらも変えてしまった。上下水道の整備や貧民街の排除、ガス灯の整備は今までは危険で不潔であったストリートをブルジョアに解放していくことになる。

私の視覚化
こうして都市が近代化し、そこに大衆という見ず知らずの他人と接する場ができあがると、自分がどう見られているのか、また相手はどういう人間なのかということが重要になって、視覚的な要素が重要になってくる。どういう人間かを外面で判断しなくてはならなくなり、それがひいては、内面と外面が等価に、さらには逆転してしまうというようなことが起こってくる。私という存在が外面の情報と化してしまう。

ファッション誌の誕生
それまではファッションドールという形で、パリのファッションが地方へと伝えられていたのが、1785年に銅版画によるファッション誌が登場する。
このころのファッション誌の目的は、パリの王室などのファッションを地方の上流階級に伝えるためのものであったが、それが19世紀になると都市部でも需要が高まるようになる。つまり雑誌の中の情報と大差無いファッションに身を包んでいるにもかかわらず、メディアの中の私/私の間に微細な差異が作り出されていく。

都市のショーウインドウ化
クリーンで安全になった19世紀後期のパリには、パッサージュ(ストリートのの室内化)、百貨店(室内の都市化)がつくられ、人々がその中をそぞろ歩きするという事が起こってくる。この辺はベンヤミンのパッサージュ論が描く所ではあるが、そのような商業空間に現れたショーウインドウは、欲望の喚起装置として有効に働くだけでなく、ガラスによって、もののテクスチャーや生々しさが失われ、スクリーン上の情報として立ち上がってくる。そうして生々しい生理的なものが消されていく事で、ファッション的価値を高めていく事が出来る。(当時のパリの名所に死体公開所というものがあって、人々はガラス越しに死体をみて楽しんでいたらしい。)

まさに都市の変化、そしてメディアの変化、そしてファッションをめぐる意識の変化が相互に結びつきながら変化している。
―パリ的リアリティとはこれすべて外観にある。われらの眼はジオラマ、パノラマ、ネオラマの眼。軽薄なわれらのまなざしには視覚効果があればそれで十分なのだ―デルフィーヌ・ゲー、1844

都市のインフラ、構造が、人々の意識を変化させ、欲望を生み出しつつ、メディアや都市に還元されつつさらに変化していくということを思わされる。
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by shinichi-log | 2008-05-28 12:12 | Lecture log | Comments(1)
欲望と枠組み
前にかいた「思想地図」を少しずつ読んでみる。若手の論客ばかりで構成されているのだけれど、やはり東浩紀の言ってる事は、エッジが効いてる気がする。

東浩紀の思想の魅力的なところは、ドライな現状認識と肯定にあると思う。
動物化した人間にたいして、理想とする姿へと矯正しようというのでなく、むしろ動物化したという状況をどのようにしたら、よりよい世界を作っていく事が可能なのかというふうに考えていく。

普通なら、人々はこうあるべきだとか、もっと道徳的になるべきというふうに、倫理的思想的にある考えを広めていって、よりよい世界を作りましょうというのだけれど、そこには一種の押し付けがましさが存在するし、めんどくさい手続きを喜んで踏んでいく人はとても少ない。実際的でない。

どんな思想も最終目的がよりよい世界(生き方)の構築という、言ってしまうと単純なものなのであれば、現実不可能な理想論を語る事や、難行苦行を課すような手続きを人に強いるよりは、動物化した人間という状況にどのような枠組みを当てはめれば、よりよい世界に達することが出来るのか。

人はそう簡単に自分の欲望を、理想のために変えたりしないし、たとえ長い目で見れば自分の人生にプラスであっても、その時その時の快楽に従ってしまう。

考えてみると、地球環境の問題なんかでは当たり前の事で、個人の欲望を無理矢理矯正していくのではなく、環境にいいことが欲望にかなうという枠組みを作り出すほうが有効な事はほぼ自明になってきているのだし。
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by shinichi-log | 2008-05-27 19:08 | Comments(0)
そろそろ
ひさびさの更新

Ricevol,3がなんとか入稿にこぎ着けました。6月の初頭からmediashopとかの本屋にて配布していきます。それにしても伸びに伸びたスケジュール。

研究会は現在完全にストップ状態で、次の展開を構想中。
メンバーが集まるのかどうかがネック。月一回ぐらいにして、明確にテーマを決めてarchiliveみたいに人数に関係なく展開できるのかも。

せっかくRiceも3まで作ったのだから活動としてもう少し継続していきたい。うまく引き継ぎを行えなかったのはすごく反省するところ。もう一度みなおして、目的とか目標をしっかり考え直す必要がある。


名古屋の仕事は、心配していたのが的中して、停滞気味。施主側でもめていてなかなか前に進まない。一応見積もりとるという話にはなっているんだけれどどうなることやらです。
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by shinichi-log | 2008-05-27 18:22 | Comments(0)
やさしさと かなしさの 場
最新号のpenは絵本特集。

たぶんこの人も特集されているんだろうなと思ったら、当然のっていました。
絵本も描く人、荒井良二。。。以前情熱大陸で取り上げられているので、いまさらなんだけど、紙面の挿絵とコメントにやられてしまいました。やさしさと、でも、かなしさと。

彼の絵本には、これといったストーリーが無く、起承転結や落ちがある訳ではない。しかしその世界の中で読者は想像力を刺激され自由に遊び回る事が出来る。それって空間を、もっというと場をつくっているということとほとんど変わらない。ゆたかな生を発生させる場。言葉や意味で満たされた物語/空間は時として読者/体験者に窮屈さを与える。そうじゃないみんなが想像しながら作り上げる空き地。

では、そのような絵/場がどのようにしてかかれているのか。「描く時はまず紙を汚す事から始めます。そうすると頭でなく体が自然に動いて誘導してくれるんです」。理性や論理で細かくつめていくのでなく、どれだけ意識の外側で作り出す事が出来るのか。
荒井さんはそこで身体というようなキーワードを持ってきているが、むしろ自分の意識(脳みそ)から離れ、画面に意図が排除されていく中で、場としての性質がつくられていくことがおもしろい。

先日お話を聞いたAZUMIさんも最近興味のある事としてこうした自分の想い、理性、コントロールを超えたアプローチに興味を持たれていたことも思い出す。

そうして、自らの身体/感性を追求すると非常に個人的な想いでとどまってしまったり、時代の感性をというように最先端を求める方向に向かったりしてしまうことが多い中、荒井さんは「100年先の人に届けよう」という想いを持って描き続けている。


明日本屋さんに行ってみよう。。。
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by shinichi-log | 2008-05-20 21:40 | daily | Comments(0)
意識のある睡眠
今週はほぼ毎日朝からバイト。昼上がりで事務所へ。作業。
始発前の時間にも関わらず、起きようと思って寝ると起きれるものだ。睡眠中でも意識は働いているのだろうかと思う。

日曜日はharuが遊びにきてくれて、月曜は磐田からgoto来京。夕方A-siteの打ち合わせの後、みんなで飲む。ちょうど火曜日だけ朝がなかったので助かった。

火曜日は研究室にroboを借りに行く。Riceの表紙作成作業なのだがなかなかうまくいかず持ち越し。出来そうで出来ないRiceです。最後の難関。

Iwasakiが庭の断面について調べている関係で、借りていた日本庭園の平面図がとてもかっこいい。桂離宮など、大きな池と中島、さらに池の窪んだ所にも小さな中島、、、というふうに相似形のものがスケールを変えて内包されていく感じを見る事が出来て興味深かった。

とはいえ日本庭園ではこのような全体的な把握がなされる事はほとんどなく、場所場所によって与えられる風景がコントロールされ異なっており、それゆえ庭園の平面より断面系を見る事の方が庭園の風景をとらえる上で非常に重要ではないかというのが研究課題らしい。

建築とランドスケープというものを風景というタームで同列に語るための方法がみつかるんじゃないだろうか?
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by shinichi-log | 2008-05-14 17:52 | daily | Comments(0)
RADoffice
GWの5、6は仕事場の改装。
数人の友人、知人に手伝ってもらって、古い設備の解体したり床のペンキ塗ったり机つくったりしました。まだ完成していないし、たいした事は出来てないのだけれど、少しずつ空間が変化していくのは楽しい。

これから少しずつ整えていきたい。。。

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by shinichi-log | 2008-05-07 16:49 | Comments(0)
exerecies de style
時に一冊の本に目がとまり離れない事がある。昔見た事があるとか、興味のある言葉が大きく見出しについているとか、果たしてブックデザインの影響がどこまであるのかすらあやしい気がする。それはほんとに何故が無い。
そんな出会いはとてもすばらしい時間を与えてくれる。

「exerecies de style」、日本語では「文体練習」と言う名の一冊(著者は映画『地下鉄のザジ』の作者でもあるレーモン・クノー。)は、書けば5行ほどの出来事を様々に異なる99の文体で表現したもの。最初の10文体を取り出してみるだけでも、メモ、複式記述、控え目に、隠喩を用いて、遡行、びっくり、夢、予言、語順改変と名前からは想像できなさそうなものばかり。それが99も続いていくのだから驚く。文体が違っているとはいえ、どの文体も不思議と心地よく響いてくるのは著者(そして訳者)の才能によっているのだろうか。
どちらにしろ内容は無くても書き方自体が持つ豊かさを十分に示してくれている。

とはいうものの内容と形式/方法というような話よりも、僕の心をとらえてくれるのは、たった一つの出来事が持つ無限の色に輝きだすという事。世界はたった一つではなくて、人の数だけ存在するそれ自体豊かなものであるという事なのかもしれない。著名な作者によって語られた内容の濃い物語のもつ煌めきより、ほんの些細な出来事がプリズムのように輝きだす。。。

ちなみに本の装丁もほんとにすばらしいですが。
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by shinichi-log | 2008-05-04 02:27 | Comments(0)
創刊
東浩紀と北田暁大による思想系の雑誌「思想地図」(「カルトグラフィ」と読むらしい。)不定期刊行。第1号の特集は「日本」が発行されたようです。公募性をとっているので批評空間の現代版みたいなスタンスなのか。

それから「真夜中」という雑誌もリトルモアから最近発売新しく発行されました。文芸、写真、絵、デザインと、ジャンルにとらわれずということでぱっと見よく分からない感じです。といってもかなりデザインされてる(とりあえず初回は服部一成がデザイン)し、サイズもA4で読み物中心の雑誌という感じ。

他にも「NEUTRAL」が「TRANSIT」に生まれ変わって創刊。

昨年にはBRUTUSから旅の雑誌「TRIP」も創刊されている。

変わったのでは、デザイン系の雑誌で「観るデザイン誌」は山ほどあるが、「読むデザイン誌」は、ないというところから始まった「クリネタ」など。。。

Transit10+1が終了したり、広告批評が来年の4月に休刊する中で、同じ数だけの雑誌が生み出されていくって言うのも変な感じだ。
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by shinichi-log | 2008-05-01 03:01 | Comments(0)



日々の何かについて、建築・デザインなど
by shinichi-log
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