カテゴリ:Lecture log( 26 )
けんちくの手帖プロジェクト〜「議論のアーキテクチャを設計する」へ
先日、大阪は中崎町commoncafeで行われたけんちくの手帖プロジェクト〜architects’BAR「けんちく本つくりたい人集まれ」vol.18『「議論の場」を設計する/PROJECT ROUNDABOUT』に参加。

1月末のLRAに参加できなかったので、すこしでも当日の議論の片鱗が掴めればと思っていたけれど、話自体はRound Aboutの活動全般についてだった。まあイベントの名前が「けんちくの手帖」だから当然と言えば当然の成り行きか。会場は奥のカウンターから手前の入り口の前まで満員の人。

パワポのタイトルは「議論のアーキテクチャを設計する」でした。2002年から始まった藤村龍至と山崎泰寛によるROUND ABOUT。今回はめずらしくお二人そろっての出演。フリーペーパー、そして「LIVE ROUNDABOUT JOURNAL」での議論のアーキテクチャがどのように設定されているのか、そして狙いは何なのかが語られました。一つの議論が、確実に次の問題、議論へと連続していく、そしてその場自体が広がっていくという事がきちんとできているのがすごい事だと思う。環境が変化しているのに関わらず変化しない建築家への危機感というところもすごく共感できた。

後半のディスカッション、質疑は、「開いている/閉じている」問題へ。それはRAJ自体のレベルから建築全般と社会に対するレベルまであると思うけれど、前者に関して言うと、カップリングや関西からの議論を呼び込む、異分野の人を引き込むなどのアーキテクチャが考えられているが、さらにいうと誰もが履歴をたどる事が出来るようなアーキテクチャの設計が必要だと思う。
建築家の議論が社会に閉じていく事に対しては、建築家が必然的にお施主さんと付き合わないといけないという事を気にしすぎているのではないかという事、そして建築界での議論までもを無理に社会に開こうとし、優しい言葉で話をする必要はないのではないかとのこと。このことは主催の吉永さんによる、試合(施主プレゼ)でのパフォーマンスは必要だけれども、練習までもパフォーマンスにする必要はなく、練習はしっかりと行った方が試合で良いプレーが出来、客も喜ぶという喩えが妙にしっくりくる。

2/20日にはROUND ABOUTの本も出版される。次のステージのアーキテクチャをどのように設計していくのか楽しみである。3月末には藤村さんに京都に来ていただけそうです。お楽しみに。



アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』をたまたま古本で見つけ読んでみた。後半の超常現象ミステリーな感じはおいといて、オーバーロード(エイリアン)によってもたらされた工学的に管理され最適化された世界のありようはアーキテクチャのようである。
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by shinichi-log | 2009-02-09 00:59 | Lecture log | Comments(1375)
五十嵐太郎レクチャーレポート
Cruise Diaryに、1/10の五十嵐太郎さんのレクチャー5回目のレポートを掲載しています。

興味のある方はぜひ。。。
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by shinichi-log | 2009-01-22 22:10 | Lecture log | Comments(0)
QC/南後由和レクチャー
先週末の3連休、京都はまさに観光客のピークを迎えていました。
普段は人通りもまばらな街も、この時期は表参道のような人通り。ただ人が多いだけで何となく街全体が少し祝祭的です。確かに紅葉はきれいだけれど、人ごみにもまれに行くのは気が引けます。

そのような観光客でごったかえすなかQuerycruiseが開催。今回は南後先生の1回目と2回目でした。「都市空間をめぐるシチュアシオニストの実践/建築論としてのアンリ・ルフェーブル」、「コンスタントのニューバビロンの射程」というタイトルで、今まであまり注目される事なく、近年世界同時的に再評価の進んでいるシチュアシオニスト(政治的な側面ではなく芸術文化的な活動)、コンスタントに関する貴重なレクチャーが行われました。60年以降のヨーロッパの建築を理解する上で欠かせない重要なコンセプトが実はコンスタントやルフェーブルらによって示されていたのだと再認識させられました。
レポートはこちら

毎回の事だけれど、90分のレクチャーと同じくらいの時間の質疑と議論の時間をもてることが今回のQCの最大の魅力ではないだろうか。
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by shinichi-log | 2008-11-26 23:27 | Lecture log | Comments(0)
QC/五十嵐レクチャー
先週末はQCの五十嵐さんレクチャーの一回目と二回目がありました。
メディアをつくる事、そして展覧会についてというふうに五十嵐太郎の活動の全貌と背景に迫るレクチャーになったと思います。
参加してくださったみなさんありがとうございました。
2日とも懇親会の時間も持て、受講者もまんべんなく五十嵐さんとお話できていたので良かったかなと思います。

レポートをCruise Diaryに乗せていますのでよければ見て下さい。


ちなみにレクチャー翌日の日曜日には新風館で卒制展のシンポジウムがありました。
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写真を見て頂けば分かるように、すごい状況になっていました。青い十字架の足下におじさんが6人ならぶという。。。
たまたま通りかかった人も何となく見る事が出来るような状況はおもしろい。広場的な性格を持ったこの中庭だからこそのシンポジウム。イベントの説明に1/3の時間が費やされてしまっていたのがちょっとしんどい。
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by shinichi-log | 2008-11-18 22:26 | Lecture log | Comments(0)
中沢新一レクチャー
いろいろ書かなくてはいけない事がたまってきているのだけれど、先ほど終わった造形大での中沢新一のレクチャーについて、興奮冷めやらぬまま書いておきたい。

タイトルは「芸術人類学について」というもので、氏が提唱されている芸術人類学が根本コンセプトが語られた。ので詳細は同名の著書を読んでいたければいいと思う(今から本屋に行って買いたい)。会場は今回のレクチャーシリーズ中最も人の入りが多くまさかの入場制限も。まさに老若男女入り交じる中おこなわれた。

芸術人類学とは何か?それは芸術を人類学的に読み替えるというような、西欧を相対化しようという試みではなく、「芸術(宗教)」というものを人類の根本原理として、現在の学問、認識を組み替えていこうというものといえる。

私たちホモサピエンスをそれ以外の人類(もしくは生命)と分離するのは、言葉によるコミュニケーションでは無く、比喩による芸術や宗教の誕生にあるとする。
通常、カオスの状態にあるものを論理的に検証し、もしくは還元的に思考し、概念として整理していくのが人類の歴史、もしくは特性として考えられてきたが、実はそうではなく全く異なったものを同時に捉える、もしくは関係づけるということこそ人類の本質であるという転回に芸術人類学の核がある。つまり、今までどんどん純粋な概念に物事の本質を見いだそうとしてきた、そういうのでは無く色々な物事をその全体として捉えるように出来た事によってこそ、ホモサピエンスが誕生したことになる。

感動的だったのは最後の質問の時に、一神教と偶像崇拝の話が出た時に、内的な発現というものの可能性として「自由」という要素が抜きだされるとそれは、何ものからも逃れているという意味で「抽象」という思考になるという。つまり、原始美術にも見られるように古代の人類は「抽象」を知っていたことになり、ということは我々は20世紀になるまで「抽象」という表現を忘れていた事になり、その間の何らかの抑圧が存在していたと考えられるというふうになる。これは、結構すごい事で、このように思考をする事で、世界の認識ががらっと変わってしまう可能性を持つ。世界を変えるのは何も実際のモノではなく、思考による認識の変化にもよっているのだから。だからこそ、このような思考のダイナミズムを味わえることは極上のエンターテイメントに比する。

もしかしたらニューアカブームをつくり出した根本にあったのも、このようなダイナミックでエキサイティングなエンターテイメントだったのかもしれない。
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by shinichi-log | 2008-11-18 20:30 | Lecture log | Comments(0)
市田良彦LectureLog
QuerycruiseはLマガジンに情報掲載されたものの厳しい状況はつづく。。。

造形大での市田良彦氏のレクチャーへ。ポストモダンを「新しいことはない」「決定不能性」と定義し、そこからポスト・ポストモダンとでも言うべきその後の状況が、リオタールの転換を指し示しながら提示されていく。(リオタールのユダヤ主義化や80年代後半からのレヴィナス人気)。そこでは、「決定不可能性」が「他者」や「崇高」という概念に結びつきつつ、ポスト・ポストモダン=「倫理」ではないかと述べられた。

簡単に言うと
「決定出来ない」(「表象できない」)
→「決定してはいけない」(「表象してはいけない」)・・・倫理の問題
への変化として捉えられる。具体的には、クロード・ライズマン『ショアー』における非ホロコーストの表象不可能性と、アウシュビッツの4枚の写真をめぐる表彰してしまっていいのかという問題として提示される。
さらにここでは〈他者〉(表象不可能性)をめぐって、政治と美の問題が〈倫理〉という点において出会うとされる。

しかしその〈他者〉を設定するということは、我々という公共空間とその外部として排除するという理論であり、ある意味で非常に古典的な共同体感に繋がっていくことになる。

それに対して、ランシエール()が提示する共同体は、「他者との抗争によって生まれる共同体」とされ、絶え間ない〈移行プロセスがつくりだす共同体〉となる。

その抗争の舞台にみんなが立っているかといばそうではなくて、その舞台に上がる前と後というプロセスを考える必要があるのではというのが市田氏の主張。そこでカギとなるのが芸術や文学といった感覚レベルで分断線を組み替えるモノになる。この感覚レベルでの思考の変化によって、移行が起こり、政治と芸術が接続するのではないか。そういう意味でも芸術やアートが持ちうる力や役割に期待を持っているということであった。

(良く理解できてないので、意味不明のまとめになっている。。。)
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by shinichi-log | 2008-10-29 00:11 | Lecture log | Comments(0)
レクチャー色々
先週の事になるが、先に記した東浩紀氏のレクチャーの他にいくつかのレクチャーに出席。簡単に記録を記しておきたい。

まず、水曜日は、ある知人の主催の集会に参加。明治天皇の曾孫だか曾々孫にあたる人物(旧皇族、慶応義塾大学の講師)による主に皇室等に関わる話。当然と言えば当然だがオーラ無しのでも賢そうな青年。話の前半は歴史に関するおもしろ話で、後半やや右よりなかんじで違和感覚えつつも、普段聞けない話が聞けておもしろかった。どちらかというとかなり場違いな所にのこのこ出かけてしまったなーと。。。

木曜日は、ドイツから来ていた先生2人による特別講義inKIT。建築家のチェスナットさんはいくつかのドイツでのプロジェクトを紹介。どれも歴史的なコンテクストへの読み取りと、新旧が過度にコントラストを与えられる事無くなじませながら併存させていたのが印象的。日本等リノベーションとかになると、とかく新旧のコントラストを際立たせようという意図が見えるものが多いが、そこは伝統的にリノベーションに取り組んでいる国だけあって態度がおおらかなのかもしれない。もう一人ブライヒャー氏は、世界中のいわゆるSTARCHITECTと共同する設備系のエンジニア。SANAAのドイツの学校(RCで窓がたくさん開いている建築)やトレドのパビリオンなどで彼自身が取り上げられた事もあるので知ってる人もいるかもしれないが、その他にもヌーベルやザハやH&deM等の名前も。とはいうものの彼の行っている事は極めてシンプルで明瞭。そのアイデアは自然界の動植物、歴史的な建造物への観察を通して得られたものばかり。エンジニアリングの話にも関わらず英語が苦手な自分にも、十分理解可能だった事がそのシンプルさをあらわしているだろう。

それで最後金曜日は、mediashopでEveningLecture。「写真の余白に」という4回シリーズの最終回。今回のテーマは心霊写真ということで、始まる前から少しドキドキしてしまう。どうしてもこのように分析対象としてみる事に追って、心霊写真の恐怖館が脱白されてしまう感じはいなめない。そのおかげで最後まで画面を見続けれたのかもしれないが。フレーム内フレーム(入れ子構造)という過剰によって生み出される恐怖、もしくは入れ子の認識という現在の認識構造が、心霊写真から読み取れるというような結論だったような・・・怖くてよく覚えてません(嘘)

以上3点
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by shinichi-log | 2008-10-16 23:37 | Lecture log | Comments(0)
東浩紀×浅田彰
浅田彰氏が京都造形芸術大学の大学院長に就任されてますますパワーアップしていく造形大で、その浅田氏コーディネートの連続公開レクチャーが昨日からスタートし、第一回目として東浩紀氏がレクチャーを行った。

東氏と言えば批評空間によって浅田彰によって見いだされデビューした人なので、なんとなく両氏の間には師弟関係のようなものを想像していたのだが、実際は8年ほどは会った事も無かったというふうに、東氏がサブカル系オタク論に転向したある種の「裏切り」(浅田)を行った事によって随分二人の距離は広がっていたんだなと確認。別に仲が悪い訳ではないみたいだが。


浅田氏も早口だが、東氏もそれに劣らぬ早口トークで「社会契約と動物化ーオタク的公共性の行方」というタイトルのもとぎっしりとつまったレクチャーを展開。


導入・・・
近刊の『リアルの行方』での大塚英志との(驚くべき噛み合なさの)対談の話から、2人の認識の違い「動物化したら公共的じゃない」(大塚)vs「動物化しても、いい公共性を考えよう」(東)が提示され議論が進んでく。


「動物化」について・・・
本人自ら簡潔に説明される事で、解釈の幅の広い「動物化」という言葉の意味がクリアになっていく。そこで「動物化」を理解するための2つの文脈、「消費社会論的文脈」と「監視社会論的文脈」がしめされる。
前者は、コジェーブによって提示されたいわゆる歴史の終焉(世界や自己の〈言説による〉認識がないまま文化が消費される)後の世界に存在するであろう「日本型スノビズム(行き過ぎた形式主義)」と「アメリカ型消費社会」の話。東氏によれば、これは歴史が終焉したというより、世界の複雑性が増大する事で近代を支えていた〈幻想としての理念〉が維持できなくなっただけではないかということなのだが。現実には「アメリカ型消費社会」が支配的なモードになってしまっていることによる動物化。
後者は、近代的な規律訓練型の社会から、環境監理型への移行によって工学的に監視監理されていく主体という存在のあり方による動物化(人間園・・・)。
ただ東氏はこの現状を批判的に視ているのではなく、このような現状(大衆の欲望の集積の結果)に希望を見いだそうとすることに価値をおいている。


公共性と公共財・・・
そのような動物化理論を踏まえ、導入でもしめされた「公共」について話が移っていく。ここでは、「公共性・公共圏」と「公共財」という2つの公共概念が示される。
前者は、いうなれば「言論の空間」。各人が自由に発言できそれによって主体として認識し合うという、ハーバーマスやアレント経由の公共概念。
それに対して、公共財とは「消費において非競合性、あるいは非排除性を備えている財」のことで、灯台とか道路等がそれにあたる。つまり、市場の失敗を補う政治的な役割としての公共財の供給。(経済)
つまり一方は言論空間の事であり、もう一方は経済の事であってじつは関係性が無いと言うのが東氏の説明。そして先ほどの東、大塚の対立はこの2つの公共概念の差異ではないかという。

もちろん「動物化」によって言論空間としての公共性は成り立たない、というか関係がない。それに対して、公共財の問題は動物化した社会においてこそ可能性をはらんでいるのではないのか、新しい公共性の可能性が示せるのではないのかというのが東氏の主張である。(googleとかSNSとか。蓄積された情報がメ多次元での無意識的秩序をつくり出す・・・)


社会契約論に向けて・・・
以上の話を踏まえてこれからの展望が示される。それは近代社会論のマスターピース「社会契約論」を読み直す事だという。ここでは、今から読み直すと相当不思議な内容が書かれていて、現代社会を読み解くカギを見つけ出せるかもしれないという。このように、単なる現代文化論だけにとどまらない広い視野と教養を持ちえているのも東氏の魅力の一つなのだろう。


最後に・・・
浅田氏と東氏の討論の時間も持たれ、浅田氏が動物化した人間が一方で承認(他者とのコミュニケーションの欲求)を求めるのか、事態は「スノビッシュな動物」というふうになってるのではないか、またはポパー(現在)vsアドルノ(20c後半)の関係などにも言及。そして、芸術やデザインがいかにして存在しうるのかというとても興味深い問いが東氏に投げかけられた。ここで面白かったのは、アート等が存在するにはある種の理念(制度)のねつ造によってしかないということの他に、何がコンテンツかを区切る境界線が今問題ではないかという提示がされる。例えばニコ動などでもそこに流されている映像と打ち込まれた字幕があってそこにコンテンツがどこまでかという線引きは難しい。そういうふうに線引きの問題がかなり実際的になってきているとのことであった。
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by shinichi-log | 2008-10-08 05:34 | Lecture log | Comments(1)
39度のとろけそうな日 と 二川幸夫
「39度のとろけそうな日」て歌ってる曲があるけれど、それは想像力豊かな歌詞の世界だと思ってたけど、そうでもなかったんだなと思う今日この頃。。。京都も暑い

そんな中「archiforum」に二川幸夫の講演会を聴きに大阪へ。こちらも熱かった

56まで殴り合いの喧嘩をし、いまでも12時間でもしゃべり続け、年の2/3は海外を飛び回り、120まで生きる予定の二川さん。強烈すぎでした。以外にも大阪の出身らしく、どことなく安藤忠雄に通じるものを感じる、もしくは安藤さん+竹内先生(工繊生の方なら分かると思いますが)。

講演自体は本人もおっしゃられていた通り、話題があっちに飛んだりいきなり戻ってきたりで、全体の筋はないんだけれど、強烈な言葉が次々と飛び出していました。敢てテーマがあるなら「君たちは絶対に建築家になれない」だそうです。半分説教されてる気がしました。
とはいいつつ、一生懸命言われていた事は、「どの建築が自分に取っていい建築かを発見する事」「いい建築とは何か。をはっきりさせる事」「もっと建築を見ろ。徹底的に」。自分で考える事をせずに、流行やトレンドに流されているのではなく、自分で戦って勝ち取ったものでしか駄目ということだろうか。
後は頭より体力。9回裏からすべてひっくり返せるだけの体力があるかないか。前川國男も丹下健三もコンペの前日にすべて案をひっくり返していたらしい。そのよこで二川さんは模型写真をとるためにウイスキー飲みながら待機。3日間飲み続けで撮影していた事もあるらしい。

建築家に対するほめ方も独特で、
安藤さん=勇気があるなー(住吉の長屋をみて)。
妹島さん=頭おかしいんじゃないかープランがむちゃくちゃ(再春館製薬女子寮)
だそうです。うまいかうまく無いかは問題じゃない。つまり、他人にはない「いい」の基準がはっきりしてる。

分かった事は、二川さんは、ほんとに何よりも誰よりも建築が好き。好きというかいい建築が無いと餓死すると言われてるように主食。だからないと生きてけない。それと何事も徹底的にやるということ。ラ・トゥーレットの魅力を理解するために24回訪れる人はこの人以外にいないだろう。また、若い頃に民家の写真集には12年かけているし、大学の時には、自分には知識が足りないと感じ丸一年間一日中図書館で本だけを読んでいたらしい。その徹底ぶり。後、底なしのパワー、体力。その源は常に戦っているから、そして考え続けているから。日帰りで自分で高速飛ばして関西まで建築見に来る事もあるというんだから衝撃です。

最近「建築と話ができる」と感じているらしい。。。


ちょっと口は悪いけど、すごく魅力的な建築大好き人。
GAでの辛口の批評も、建築の未来を思えばこそ。
「建築は一品製品として存在しうる唯一の存在」そんな存在に関われる事は、この時代にあってすごく幸せなことに違いないのだから。

「すべて「かも」なんだからやってみないとわからないだろう。」に勇気づけられた。
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by shinichi-log | 2008-07-27 17:47 | Lecture log | Comments(2)
Lecture log 7-青木淳「Mのスタディ」
7月5日東京国立近代美術館にて開催中の「建築がうまれるとき
ペーター・メルクリと青木淳」に関連して講演会が行われた。
開始10分前に行くと会場はすでに満員で中に入れないという状況。なんとかお願いして入り口付近で立ち見できる事に。

講演会の主な内容はまさに「Mのスタディー」について。展覧会よりももう少し具体的(敷地の写真が紹介され、どう読み取ったか)に、「M」という住宅ができあがる過程が模型写真とノートのスケッチから説明された。最初の塔状のヴォリューム、面心構造、不整形、カメラ、端部のカット、屋根の分岐、再びシンプルな方向へ、中庭の消滅、二重皮膜・・・。様々なfactorに分解して、それを順番に解決していくというよりかは、ある形を作るルールを、条件にあうように適応していき、それが魅力的になっていくのかどうかが重要で、魅力的にならない(面白くない、先が見えてしまう)場合は、連続性よりも新しいルールがつくられ適応させられていく。そうして様々な建ち方が示された末に提示されるのは、条件をクリアし、最も魅力を感じさせるルールが見つかった時なのだ。

内容とは別に、語り手としての青木さんのポジショニングも興味深い。最初に模型を作ったのは自分ではなく、所員が考えた案の場合はそれを隠す事無く提示して、なおかつ突っ込みを入れる。また随所に使われた「こうなっちゃった」とか「気付いた」という言葉からは、対象と自分を切り離しているような印象を受ける。それは、ルールと条件から必然的に現れてくる「形」を、再び見いだしていくという事の現れなのかもしれない。パワーポイントの使い方もユーモアあふれるもので、案が発展して進んでいくような場合は、ぱたぱたと写真が倒れて移り変わるように、また全く別の案に向かう時は、水に流すという意味で水の波紋とともに移り変わる。

質問の時に多くの人が思ったであろう事は、あまりにも坦々といろんなアイデアが試され新しいものに取り替えられていく様を見せられたので、一貫したコンセプト、もしくはテーマが存在しているのかということだったのではにだろうか?青木さんは昔から「動線体」「ルールのオーバードライブ」「原っぱ」とか魅力的な言葉で建築を説明されてきただけに、そういうキーワードも無く一貫したテーマも示されない事は少し期待を裏切られたように感じなくもない。
その事に対して青木さんは、自分自身の興味は移り変わってるとしつつ、少しの事で普通と違って見えるもを作りたいという。それは嘘っぽいもの、まるでCGのようで、モノとしてあるのにモノに見えない状態。それは結構すごい事なのではないかと。
またそれは、デザインの意図が分からないようにデザインする、そして作為の無いようにたまたまそうなっているような状態が「原っぱ」なのだという事だった。日常性からかけ離れるのではなく、日常にものすごく近しく接していながら、全く異なった存在になる事で作り出される違和感。

この青木さんの説明を聞いて思い出したのは、研究会の機関誌「Rice vol,3」の中で、メンバーの一人が「違和感という雰囲気」というタイトルで、青木さんの建築をデペイズマンというシュールレアリスムの概念を使って分析している内容だ。そして違和感のあり方を、もの同士の関係性がつくりだす(普通の部屋に異様に大きいリンゴがあるなど)「下意識」に働くものと、質同士が作り出す「前意識」に分類している。そして青木さんの建築にはこの「全意識」に働きかける違和感があるという。

いつも平易なことばで建築を語ってくれる青木さんの建築は、複雑とは違った奥行きと、派手さとは違う不思議な佇まいを、そして分かりやすい説明と同時に大きな謎を投げかけてくる。その謎を解きたいような、いつまでも謎の中に浸っていたいような気がする。
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by shinichi-log | 2008-07-06 08:17 | Lecture log | Comments(0)



日々の何かについて、建築・デザインなど
by shinichi-log
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