部分だけしか聞けなかったが、昨晩のsocialkitchenでの佐々木敦氏のレクチャーを聞いて。
佐々木氏本人も終了後のツイッターで非常に面白かったと興奮気味に語られていたように、後半にかけて盛り上がっていったのだが、基本的には「日本の思想」から「未知との遭遇」に至り、加納+高橋展のタイトルでもある「パズルと反芻」について語るという内容だった(ようだ。) 日本の思想が、80年代、90年代、00年代はゲーム盤の上での「ゲーム」が「反復」してきた事に対し、テン年代はそのゲーム盤(どれだけわかるを提供できるか)から抜け出さだす事が必要とするのが「未知との遭遇」で語られている事のようだが、キーワードとして「日常」と「なぞ」ということが言及されていた。ここでは主に後者について書いていく。 「なぞ=よく分からないもの」と考える。 More
長坂常さんのレクチャーと行き帰りの電車の中で読んでいた一般意思2.0、13章がおもしろいくらいにつながって読めてしまったので、その事を少しメモ(以下は思いつきのレベルをでない上に、文章も支離滅裂だ。関連付けに根拠もないし、説明も十分でないです。その辺りご了承ください。)
さて、一般意思2.0の中で東博樹はアメリカのプラグマティズムの哲学者ローティによるアイロニスト(アイロニーを実践する人)の定義を紹介している。 「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物」(ローティ) これがローティによる定義なのだが、ここでいう偶然性とは「たまたま」という感覚を指している。ゆえにそれは東の記述によると、「あることの普遍性を信じながら、同時にそのものが特殊である事も認める」人ということになる。この「2つの矛盾する主張を同時に信じる」ことに如何に耐えるのか。 さて、これがどのように長坂さんの話しに繋がるのか。話しの中で「これでいいいのだ」という価値観を大切にしたいという長坂さんの言葉があったのだが、これはつまり「これがいい」というカント的な主観に根ざした絶対的な価値観によってモノをつくるのではなく、「これでいい」という態度によって、その事自体は確かだけれども当時にそこに外部としての他者を受け入れることを許容する という意味において非常にアイロニカルといえるのではないか? 建築家は、引き渡しという時間的な切断を行なわなければならない故に、その時点での完成形を目指して建築をつくる。しかしながら、それはひとつの完成形ではあるものの、同時に他の完成形の姿を許容する建築のあり方。 もう一点、この章の最後に自由について議論が紹介されている。 自由とは、主体の意識的な行為を何事も妨げられないということを意味する。自由を信奉する人の事をリベラルとした上で、ローティはリベラルであるという事を「理念を必要としない、身体的な反応(=無意識)を意味する言葉としてとらえ返し」ていると東は述べている。 長坂さんのスライドもまた自由になりたいということから始まっていた。自由とは何であろうか?自由を獲得するためにはどうすればいいのか。自分の意識を先鋭化させて何ものにもとらわれず自分の表現を突き詰める事が一般的には自由であると考えられているが、長坂さんの場合はそうではない。そのような行為は逆に多様である事、自分以外の何かを受け入れる事の可能性を取り除いてしまっていると考えているようだ。では、自由はどのように獲得されているのか?ここで長坂さんがきわめて限定的な行為「とる」「削る」「切る」「流し込む」によってデザインを行なっている事を思い出したい。単純な行為=操作。それは先の言葉で言うと「身体的な反応=無意識」を呼び起こすためのきっかけではあるまいか。ローティの自由の概念が一般的なものと異なっているのと同様に、長坂さんの自由も、これまで建築家や芸術家が目指してきた自由と実は正反対のものとして構想されているのかもしれない。 この自由を巡る態度は先のアイロニーの議論と繋がってくる。アイロニストである長坂さんは操作の限定性(=何でもできるではない)によって、最大限の自由を建築の中に生み出せるのではないかと信じている、そう考えれなくはないだろうか。。
ウルトラファクトリーにて、パーソンズ美術大学のキャメロン・トンキンワイズ氏と、AHFのナサニエルのトークイベント「サステナブルデザイン」とは?に参加
以下、キャメロンがサステナブルデザインにとって重要なポイントとして語った内容を簡単にまとめ。 1、Social Networking ソーシャルネットワークそれ自体ではなく、コミュニケーションのツールの変化によってコラボレーションの方法が変化。人=human energyを対象にすることが重要になってくる。 2、Amplify hidden Share 世の中の目に見えない"Share"をみつけだし、展開していくという事。近代的な社会システムは"buy=所有する"によってなりたってきた。郊外はまさに、家、車、家電を個人が所有する事によってしか始まらない生活空間。所有という概念を帰る必要があり、その代替がシェア。様々なシェアのプラットフォームがうまれつつある。しかし、そもそもシェアという状況は社会の中に存在している。その見えないシェアを発見して増幅することによって、シェアの役割りが強化されていく。それがデザインにとって重要。 3、Service design プロダクトだけでなくその先のサービスデザインまでを考える事。design for peopleでなく、desing between people(おそらく)。ある種のサイクルを考えるという事。 非常にわかりやすくまとめられている提案だと思う。注意しておきたいのは、これが主にヨーロッパで見受けられるということ。つまり、日本は日本のサステナブルについて考えないと行けないし、オーストラリアはオーストラリアのそれを見つける必要があるという事だろう。もし、単一のサステナブルを世界中に適応するのだとしたらそれこそ近代と同じ轍を踏むことになる。 最後にもう一点。キャメロンはデザイナーという語が不当に多くを担わされていると考えているようだ。つまり、デザイナーとイノベーターは分けて考える必要がある。イノベーターとは、オリジネーターであって、新しいアイデアを発明する人のことで、アーティストや起業家のようなひとを意味する。それにたいしてデザイナーとは、そのように発見されたアイデアのエッセンスを引き出し、生産のラインに載せる事で生活を豊かにする人間の事をいう。そして、現在ではこの「エッセンスを引き出し」と「生活を豊かにする」の間が変化してきていると言えるのではないだろうか?
建築家三分一博志は、「地球のディテール」というキーワードとともにエコロジー系の建築家として捉えられてると思う。初めて三分一氏の建築を雑誌で見かけたのはMIWAGAWAという木目の美しいコンクリート打ち放しと、型枠を使った建具の建築で、写し取られたもの(型枠)と、写されたもの(コンクリート)ので出来ているこの建築は、その素材の一体感と、また完璧なデイテールが静謐な印象を与えるミニマリズム的美しい建築だった。なので、その後彼三分一氏が勾配屋根の地中に埋まったような環境系の建築を生み出しているのを見て、少し残念に(入らぬお世話だが、あんなに美しい建築をつくれるのだからもったいないという思いから)思いながら、特に強く注目してきた訳ではなかった。そういう経緯もあり、個人的には今日の大学での特別講義の期待度はあまり高くなかったと言っていい。しかし、結果今年一番の充実した特別講義だったのではないだろうか。
Energy Scape 三分一建築のユニークなところは、建築も地球/環境もエネルギー場として統一的に捉える視点だと思う。それは、人も自然も地球の一部というような共存というレベルを超え、それらを別々のものとして捉える事無く、同一の系としてみる事を意味している。統一場理論というものがあるが、そう言う考えに近いのかもしれない。景色というものはエネルギーの景色(Energy Scape)としてつくられているという。ゆえに、三分一にとって建築も、地球も、環境も等価であり、そうであるが故に建築が環境になる、地球になるという思考も可能になるのだ。地域の素材を使い、形態的に溶け込ませていくように建築を消していった隈研吾に対し、三分一氏は、建築もエネルギーの場として環境と同一に考えるという意味で建築が消えていっている印象を受けた。 地球のディテール/建材 このEnergy Scapeという思考法でもって具体的に建築に落とし込んで行くときに、鍵となるのが「地球のディテール」なのだ。「自然環境に導かれている風景や建築は地球の一部となりうる」「全てのディテールは地球に通じている」と三分一氏が言うように、ここでの地球は土や空気、水などの環境総体の事を指す。もちろん空気自体の詳細を扱う事は出来ないのでここでのデイテールは「存在の仕方」というぐらいに取ればいいと思う。そしてこのディテールを適切にあたえることで、あらゆる自然素材(空気、水など)を知的な「建材」として使うことが出来るのだと言う。つまり空気のような環境的な要素を、それ自体が建築を構成するものとして、ガラスや木などと等価に扱うという考えが「建材」という言葉に見て取れる。そして、そのような環境的な要素を「建材化」するために必要とされているのが適切なスケールとディテールなのだ。 とはいえ、そこには絶えず「装置」っぽい建築への契機が落とし穴として残されている。ある種の性能を愚直に追いかけた結果、生真面目さが裏目に出るということも起こって来る。装置的であるものを、きちんと風景としてみせる。そこには別種の建築的な感性というものが必要になってくるのだろう。 都市へ向かう可能性 今回の講義で示されたのは比較的地方の自然豊かな地域での話だったが、犬島のプロジェクトで人のてによる廃墟も過去に膨大なエネルギーが注ぎ込まれた場として捉えたというふうに、都市をEnergyScapeという見方で観るならば、巨大なエネルギーの塊(何百万人という人、車、都市の熱)である大都市においてこそ、三分一建築の可能性が開かれる気がしてならない。現在は建築も車や人と同様かそれ以上にエネルギーを排出する存在であるけれど、そのような都市のエネルギーに適切なディテールを与えて、建材化し、建築に取り込むことで、建築が効率的に都市のエネルギーを消化するように存在するのかもしれない。それは緻密なデザインと、取り組み、そのためのリサーチがそう思わせてくれる。ここに三分一氏の建築の魅力があるのではないだろうか。
デザイン科学専攻修了制作展2009の特別講演会に行ってきました。日経デザイン編集長の下川一哉氏と、エストニア国立大学教授の阿部雅世さんというキラっとひかるセレクションで、実際すごく面白い内容だったので、今回と次回でそれぞれレポートしていきます。
まず下川さんの講演タイトルは「インハウスデザイナーとは」。どちらかというとあまり知られていない企業デザイナーについて、具体的な例を挙げながら、今後のありかた、またデザイン自体の担う役割の変化について。インハウスデザイナーとは、つまり企業のアサインに従ってデザインをする人の事だが、近年では単に次世代モデルのデザインにとどまらない戦略的役割を担うようになって来ているとのこと。 例に挙げられたのが、Panasonicである。昨年NationalがPanasonicに統合され新たな道を進みだした同社のデザインを行うのがパナソニックデザインカンパニー。そのミッションは、「ブランドの価値を高め売り上げを伸ばす」という明快なもの。そのために行われるここの取り組みは形のデザインを超えた戦略性が問われている。それは①新たな価値創造、②海外拠点の整備、③グループを生かしたデザイン戦略。 ①では先進性やプレミアムな満足感を生み出すためのデザインが追求される。例としてデジタルカメラのLumixがある。Lumixというのは独自技術の名前であり、その技術をデザインによってかし化させていく事が求められている。(Panasonicというロゴより技術が価値になる。)またカラーリングにおいても家電がインテリアの一部として存在するように、インテリア業界の分析を通じて行われていたりする。②でも単なる情報収集という役割から、マーケティング等と共同したリサーチを行ったり、③はPanasonicという企業の家電から住宅まで扱えるという強みをいかに生かすかという取り組みがなされている。 インハウスデザイナーの強みとして、デザインと技術と経営で起こすイノベーションを学べる事ではないか。この3点がそろって始めてイノベーションをつくり出せる。その現場を学ぶ事が出来る点だろう。そして、企業の持つ高い技術力、先端技術に触れる事が出来るので、ecoやユニバーサルデザインに関する先端的なデザインを行う可能性にも開かれている。 とはいうものの、未だにデザイナー自体の地位の低さ(欧米に比べてという話)が問題にもなっている訳で、如何にデザイン自体、デザイナー自体の価値を企業や社会に伝えていくのかという問いがあり、それに対して下川さんの提案として面白かったのが、知的財産という考え方であった。つまりデザインを装飾として認識してもらうのではなく、知的財産としてきちんとその価値を誰にでも分かるように顕在化すること。これは企業側が行う事もあるだろうけれど、デザイナー自身も意識的にならなければならない問題でもあるだろう。もう一方で、インターネット等のアンケートで一般の人からデザインの価値に関する具体的な数字をあげることで、デザインの必要性を示し、デザインと投資と売り上げの関係を少しでも裏付ける事に繋がっていくのではないかという事であった。 また昨今の gooddesign受賞作をみても顕著なように、デザインが色や形を越え始め、体験や幸福感といった問題をどのようにデザインによって実現するかが問われているのではという下川さんの指摘もおそらく重要で、ますますデザインの評価のされ方が変わっていくと思われる。そうした時にどのような価値基準をもって評価されていくのかをデザイナー自身が意識し、そして社会と共有していく事が求められていくのではないだろうか。
先日、大阪は中崎町commoncafeで行われたけんちくの手帖プロジェクト〜architects’BAR「けんちく本つくりたい人集まれ」vol.18『「議論の場」を設計する/PROJECT ROUNDABOUT』に参加。
1月末のLRAに参加できなかったので、すこしでも当日の議論の片鱗が掴めればと思っていたけれど、話自体はRound Aboutの活動全般についてだった。まあイベントの名前が「けんちくの手帖」だから当然と言えば当然の成り行きか。会場は奥のカウンターから手前の入り口の前まで満員の人。 パワポのタイトルは「議論のアーキテクチャを設計する」でした。2002年から始まった藤村龍至と山崎泰寛によるROUND ABOUT。今回はめずらしくお二人そろっての出演。フリーペーパー、そして「LIVE ROUNDABOUT JOURNAL」での議論のアーキテクチャがどのように設定されているのか、そして狙いは何なのかが語られました。一つの議論が、確実に次の問題、議論へと連続していく、そしてその場自体が広がっていくという事がきちんとできているのがすごい事だと思う。環境が変化しているのに関わらず変化しない建築家への危機感というところもすごく共感できた。 後半のディスカッション、質疑は、「開いている/閉じている」問題へ。それはRAJ自体のレベルから建築全般と社会に対するレベルまであると思うけれど、前者に関して言うと、カップリングや関西からの議論を呼び込む、異分野の人を引き込むなどのアーキテクチャが考えられているが、さらにいうと誰もが履歴をたどる事が出来るようなアーキテクチャの設計が必要だと思う。 建築家の議論が社会に閉じていく事に対しては、建築家が必然的にお施主さんと付き合わないといけないという事を気にしすぎているのではないかという事、そして建築界での議論までもを無理に社会に開こうとし、優しい言葉で話をする必要はないのではないかとのこと。このことは主催の吉永さんによる、試合(施主プレゼ)でのパフォーマンスは必要だけれども、練習までもパフォーマンスにする必要はなく、練習はしっかりと行った方が試合で良いプレーが出来、客も喜ぶという喩えが妙にしっくりくる。 2/20日にはROUND ABOUTの本も出版される。次のステージのアーキテクチャをどのように設計していくのか楽しみである。3月末には藤村さんに京都に来ていただけそうです。お楽しみに。 アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』をたまたま古本で見つけ読んでみた。後半の超常現象ミステリーな感じはおいといて、オーバーロード(エイリアン)によってもたらされた工学的に管理され最適化された世界のありようはアーキテクチャのようである。
先週末の3連休、京都はまさに観光客のピークを迎えていました。
普段は人通りもまばらな街も、この時期は表参道のような人通り。ただ人が多いだけで何となく街全体が少し祝祭的です。確かに紅葉はきれいだけれど、人ごみにもまれに行くのは気が引けます。 そのような観光客でごったかえすなかQuerycruiseが開催。今回は南後先生の1回目と2回目でした。「都市空間をめぐるシチュアシオニストの実践/建築論としてのアンリ・ルフェーブル」、「コンスタントのニューバビロンの射程」というタイトルで、今まであまり注目される事なく、近年世界同時的に再評価の進んでいるシチュアシオニスト(政治的な側面ではなく芸術文化的な活動)、コンスタントに関する貴重なレクチャーが行われました。60年以降のヨーロッパの建築を理解する上で欠かせない重要なコンセプトが実はコンスタントやルフェーブルらによって示されていたのだと再認識させられました。 レポートはこちら 毎回の事だけれど、90分のレクチャーと同じくらいの時間の質疑と議論の時間をもてることが今回のQCの最大の魅力ではないだろうか。
先週末はQCの五十嵐さんレクチャーの一回目と二回目がありました。
メディアをつくる事、そして展覧会についてというふうに五十嵐太郎の活動の全貌と背景に迫るレクチャーになったと思います。 参加してくださったみなさんありがとうございました。 2日とも懇親会の時間も持て、受講者もまんべんなく五十嵐さんとお話できていたので良かったかなと思います。 レポートをCruise Diaryに乗せていますのでよければ見て下さい。 ちなみにレクチャー翌日の日曜日には新風館で卒制展のシンポジウムがありました。 ![]() ![]() たまたま通りかかった人も何となく見る事が出来るような状況はおもしろい。広場的な性格を持ったこの中庭だからこそのシンポジウム。イベントの説明に1/3の時間が費やされてしまっていたのがちょっとしんどい。
いろいろ書かなくてはいけない事がたまってきているのだけれど、先ほど終わった造形大での中沢新一のレクチャーについて、興奮冷めやらぬまま書いておきたい。
タイトルは「芸術人類学について」というもので、氏が提唱されている芸術人類学が根本コンセプトが語られた。ので詳細は同名の著書を読んでいたければいいと思う(今から本屋に行って買いたい)。会場は今回のレクチャーシリーズ中最も人の入りが多くまさかの入場制限も。まさに老若男女入り交じる中おこなわれた。 芸術人類学とは何か?それは芸術を人類学的に読み替えるというような、西欧を相対化しようという試みではなく、「芸術(宗教)」というものを人類の根本原理として、現在の学問、認識を組み替えていこうというものといえる。 私たちホモサピエンスをそれ以外の人類(もしくは生命)と分離するのは、言葉によるコミュニケーションでは無く、比喩による芸術や宗教の誕生にあるとする。 通常、カオスの状態にあるものを論理的に検証し、もしくは還元的に思考し、概念として整理していくのが人類の歴史、もしくは特性として考えられてきたが、実はそうではなく全く異なったものを同時に捉える、もしくは関係づけるということこそ人類の本質であるという転回に芸術人類学の核がある。つまり、今までどんどん純粋な概念に物事の本質を見いだそうとしてきた、そういうのでは無く色々な物事をその全体として捉えるように出来た事によってこそ、ホモサピエンスが誕生したことになる。 感動的だったのは最後の質問の時に、一神教と偶像崇拝の話が出た時に、内的な発現というものの可能性として「自由」という要素が抜きだされるとそれは、何ものからも逃れているという意味で「抽象」という思考になるという。つまり、原始美術にも見られるように古代の人類は「抽象」を知っていたことになり、ということは我々は20世紀になるまで「抽象」という表現を忘れていた事になり、その間の何らかの抑圧が存在していたと考えられるというふうになる。これは、結構すごい事で、このように思考をする事で、世界の認識ががらっと変わってしまう可能性を持つ。世界を変えるのは何も実際のモノではなく、思考による認識の変化にもよっているのだから。だからこそ、このような思考のダイナミズムを味わえることは極上のエンターテイメントに比する。 もしかしたらニューアカブームをつくり出した根本にあったのも、このようなダイナミックでエキサイティングなエンターテイメントだったのかもしれない。 < 前のページ次のページ >
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