カテゴリ:review( 16 )
「アーツ・アンド・クラフト」展
京都国立近代美術館へ「ウィリアム・モリス展」をみにいく。

「アーツ・アンド・クラフト」から始まり、グラスゴー派、ゼセッション、ドイツ工作連盟、日本の民芸へと向かう展示内容。
アーツ・アンド・クラフトがモダンデザインの先駆けといわれても、その理想としたのは中世的なギルドの世界であり職人技への賛美であり、同時期のゴシックリバイバルなんかと結びついていている表現に対して、モダンの新しさを感じることは出来ないのではないだろうか。ただ、そこからあまり違和感なくドイツ工作連盟まで変化していくことを考えると、根源としてのアーツ・アンド・クラフトが見えてくるような気がした。

しかし「アーツ・アンド・クラフト」がそれ以前と異なっていたのはまさにモリスの存在によってではないのかと言う気がしてきた。つまりデザイナーとしての存在がそのものと共に、もしくはそのもの以上に浮かび上がってくる事が、もっともモダンなものの現れ方なのではないかと思わされた。中性の職人はそれこそ無名の工匠であったはずである。

「アーツ・アンド・クラフト」では作品のレベルは職人のものとあまり距離を持たないが故に、その〈作家〉性がつよく現れてくる。

とはいえ、モダンデザインの黎明期を形作った想像力を伺い知ることのできる展覧会であったように思う。
[PR]
by shinichi-log | 2008-10-31 00:49 | review | Comments(0)
コールハースは語る、その後
コールハースのインタビュー本を購入。
楽しみにしていたのにあっという間に読み終わってしまい残念。。。

いくつかのインタビューの寄せ集めであるために全体のパースペクティブを欠いてしまっている印象も否めないのだが、そのような様々な領域を横断的にまた断続的に移動しながらすすむ思考は極めてコールハース的とも言えるのかもしれない。

そしてほとんど彼の活動のインパクトしか受容しえていないのだと改めて気付かされることになる。

文化と政治の問題、ノスタルジーとルネサンスの関係、市場経済、中国的都市、etc...。建築が都市の中にあって、またグローバルな世界にあってどう存在する事が出来るのだろうか、、、
[PR]
by shinichi-log | 2008-10-23 23:45 | review | Comments(0)
呼吸機械 by 維新派
e0055325_239533.jpg

先週、いやもう先々週のことになるのだが、維新派の『呼吸機械』を観に行く。

最初に維新派をみたのが『キートン』だったから4回目、昨年の夏のワークショップ公演含めると5回も観に行ってる事になる。。。

前回から幾分テイストが代わり、物語がつよくなり、世界観が具象的になってきている。昔は白塗りの役者、それにバラバラにされ再構成された言葉と内橋さんによる音楽に、抽象的な大舞台セットという組み合わせが、維新はという世界観を強固に作り上げていたように感じるのだが、物語が先行する事で空間のつくり出す緊張感が背後に退いていっているのかもしれない。

とはいえ今回は、琵琶湖での公演ということで、その良さを最大限に引き出す事によって大掛かりな舞台セットによらない深みのある舞台を作り上げていたように思える。つまり舞台は琵琶湖の湖面を背にしているので、そのバックは空虚である。通常舞台のバックは劇場ならもちろんのこと屋外でもバックは背景の面は存在している。そしてその舞台の良さを一番引き出していたのは終盤に繰り広げられた大演舞だったようにおもう。いつのまにか舞台全体に水が流れており、そのしぶきなどの効果によって動きがダイナミックなものへと変化していく。なにより水を体にまとう事で、役者と湖とが連続する存在となり、どこか神秘的な雰囲気すら漂いだしていた。

前回夏のワークショップ公演でも、この時は山であったが自然と一体化するような不思議な時空間を見せてくれるのが維新派の最大の魅力なのかもしれない。それは、もともと「舞」がカミや精霊との交信に用いられたいた頃の記憶を宿しているのかもしれない。
[PR]
by shinichi-log | 2008-10-20 00:22 | review | Comments(0)
塩田千春展/国立国際美術館
大阪の国立国際美術館ではベルリンを拠点に活躍する塩田千春の大規模な展覧会が意開かれ評判になっているよう。
2年前に新宿のちいさなギャラリーでの個展に足を運んだこともあり、空間を大胆に使ったインスタレーションに前々から興味を持っていたので、非常に楽しみに見に行った。

国立国際美術館の地下にもぐっていく独特のアプローチを進むと、突然大きな赤い糸で出来た作品に圧倒される。これは一般の人から集めた靴を用いた作品であり、その扇上にならべられた靴に結びつけられた赤い糸が上空で一点に収束していく。視覚的にも非常に美しくインパクトを持ち、同時に誰かによって履かれていた靴達が異様な迫力を生み出している。

さらに右手の空間にはいくつものベッド(今まで誰かがいたように布団は乱れている)がおかれ、ここでは黒い糸がその周囲、そして部屋の影や天井にまではり巡らされている。不在のベッドに残る痕跡とクモの巣に絡めとられてしまったような空間が、非常な迫力と不安感を投げかけてくる。

塩田の作品には、記憶や痕跡というものが絶えずテーマとして存在しているが、そこでの記憶や痕跡はけして懐かしくメランコリックなものではなく、私たちを拘束し、不気味に存在する恐ろしい存在のように感じられる。ここでの黒い糸はまさしくそのような禍々しさを作り出しているし、浸食するような糸の広がりも心の中に浸食していく恐怖や不安を表しているように感じる。
先ほどの赤い糸と靴の作品も、多くの記憶が一つに統合されると見る事も出来るのかもしれないが、扇状に外側にひろがりながら赤い糸に繋がれている姿はまるでその束縛から一斉に逃れようとしているようでもあり、ここでも逃れがたい記憶や繋がりという不安を抱かせる。

もっとも感銘と衝撃を受けたのは、数年前の横浜トリエンナーレに出品され話題になった「After that-皮膚からの記憶」という巨大な3着の服が掲げられている作品だった。ここで巨大と書いたけれど、おそらくこの巨大さから来る印象は想像しても実感できるものではないと思う。私も何度か写真で見たことがあったのだけれど、それとは全く異なる存在としてそこにあった。もちろんその巨大さは遺跡のような荘厳さなどを作り出して入るのだけれど、みなれた服がまったく別なものとして現れてくる事にたいする驚きと不安、背後にある隠された世界の痕跡を感じさせてくれた。
その不安は自分のなかでうまく言語化できない感情によってうみだされる種類のものでもあると思う。

同じフロアで同時開催されているのは、宮本隆司と石内都の写真展示。どちらも記憶や痕跡という主題で作品を作り出している写真家であり、塩田のしめす記憶・痕跡と対比して感じてみるのも面白い。
[PR]
by shinichi-log | 2008-08-27 02:52 | review | Comments(0)
自由とは何か/大屋雄裕
著者は名古屋大学で法哲学を専門にしている大屋雄裕氏。
副題にある通り「個人」のあり方や監視社会を通じ現代における「自由とは何か」という非常に難しい問いに、法哲学的観点から述べられている。
近代が前提としていた自律的で主体としての個人という存在が揺らぐ今日において、「自由」な「個人」とは何かを問うことが本書の目的とされている。

一章では「個人」という存在と「自由」がどのように現れてくるのかが例を挙げながら示され、続いてそのような「個人」と「自由」が何によって妨げられるのかが述べられている。国家?共同体?・・・国家は現在の常識的な意識からすると私たちの自由を束縛する長たるものであるが、近代国家成立は中世的な共同体に縛られていた人々を解放し、主体的な個人として成立させたという事実に気付かされる。
そして著者はアイザイア・バーリンの述べる2つの自由を提示する。つまり自由に関して「強制の内容」と「誰が決めるのか」という問題を分け、前者を「消極的自由」後者を「積極的自由」という概念にむすびつける。もう少し分かりやすく言うと、「消極的自由」とは、制限されない、自分の思うままに振る舞える事、「積極的自由」とは自己実現の自由(ヘーゲル)、自由な意志にもとづいて公共な決定に参加する事になる。(後者は近代的主体というものを前提にしているのだろう。)
このような単純な2項対立への批判(井上達夫)や、積極的自由の暴走の危険(ナチや独裁)も十分考慮されるべきであろう。しかしここで注目しないと行けないのは「消極的自由」をかかげるリバタリアンの主張にも、自由は自然にではなく(自然は我々を怒らせたり混乱したりしない/ルソー)“誰か”の意思によって制限されるとされているが、本当にそうだろうかという問いである。今やこの自然ですら私たちを規制するように働いているのではないか?それがアーキテクチャ型権力(ローレンス・レッシグ)である。

次章では、レッシグによるアーキテクチャ型規制というものがいかなるものであるのかが、監視社会のあり方、データベースによるシュミレーション型のマーケティング(amazonのおすすめ)などを通じて語られる。つまりアーキテクチャ型規制とは「先取り」ということであって、行為の可能性をあらかじめ消去する事によって、知らない間に個人の自由を奪ってしまっているということである。(良く言われるのは、マクドナルドの椅子とか、寝転ぶ事が出来ないベンチ等)先ほどまでの議論と違い、誰かによって強制されるという事は無く、環境自体が規制されているのである。
そこにあるのはリスクへの予防や、必要な商品やサービスが迅速かつ適切に、そしてあらかじめ用意されていればという私たちの欲望によっている事が強調される。
であるから著者はことさらにアーキテクチャ権力を批判する事に有効性見いだしていない。それは私たちが望んだ事なのだから。
そこで著者は、事前規制であるか事後規制であるかの違いに目を向けるべきだという。事前規制(アーキテクチャー)と異なり事後規制においてはあらゆる可能性が開かれているのでそれは自由とは抵触しない。一見当たり前ではあるが、自由であることは当然ながら必然としてリスクを伴うということになり、そしてリスクが自由を奪うのではなく、リスクの排除が自由の排除に繋がると結論づけられる。

三章では、上記の議論を引き継ぎつつ刑法という観点から議論が進められる。そこで展開されてきたのは「事前規制と事後規制の対立、あらかじめリスクを排除していくシステムと個人の行為のあとでその責任を追及していく制度の対立」であったと記される。そして、著者は事後的に責任を負う事によって、行為者は偶然的・確率的にその行為に追いやられた客体ではなく、積極的に自由な選択をした主体としてあらわれるのだと主張する。しかし、功利主義的な立場からすると、近代的な主体というフィクションによるよりも、アーキテクチャ型権力のほうがより私たちに快楽や欲望を提供するのだから、主体というものに固守せずとも積極的にアーキテクチャによる規制をすすめるべきなのである。しかし筆者はこの提案に魅力を覚えつつも、アーキテクチャが誰かによってつくられている限り悪意の暴走をはらんでいるし、完全でない予測に浸るよりかは、むしろまだ多くの人は自分自身を自由な主体として想定していきたいと願い、そのことに気持ちよさを抱いているとする。そして責任を引き受ける事によって自由というものが発生するという〈擬制〉はまだ信ずるにたるのではないかと主張する。

自由という捉えがたいものに一定の定義を与えているという点では評価できるのだが、では、もう少しこの増大するアーキテクチャ型権力に対しどのように対処すべきなのかなどについても知りたいところである。
[PR]
by shinichi-log | 2008-08-26 02:25 | review | Comments(0)
攻殻機動隊2.0 と 世界の想像力
先日、大阪に行く機会があったので難波で「攻殻機動隊2.0」を見てきた。

まさか、劇場で見る事が出来るなんてと思ってたので、非常にうれしいリメイク、再上映。押井さんが全く新しいと言ってたので過度に期待してしまっていたので、少々期待はずれという気がしなくも無いが、作品自体のすばらしさは変わるはずもなく。新しくCGで作成された場面は、解像度とか色はすごくきれいなのだけれど、モコモコした姿が違和感を作り出していた。確かに都市の描写とか、電脳空間とかは数段表現力が増していてきれいなんだけど。。。また、物語に関係ない情景が非常に多いことにも改めてきづかされた。中盤の雨のチャイナタウンのシーンなどは全く登場人物がいない。この情景という「心にある感情を起こさせる光景や場面」自体も非常に興味深い対象ではあるけれど、ここから分かるのは、いかに押井作品においては物語よりも世界観や設定が重要であったかということがわかる。最新作のインタビューで今回初めてドラマを作ったと言ってるように、今までの作品(つまり攻殻機動隊もふくめ)は、物語よりもその背後の世界にこそ主眼がおかれているといえる。

もう一つ改めて見直して感じた事の一つに、非常に魅力的な世界観が、実はすごく90年代的なものだったんじゃないかということ。少なくともここ数年の想像力からは距離があるようにおもえた。やはり90年代というのは世紀末で、それに呼応して廃墟やカオス的都市の想像力がぴたっとハマってもいたし、顕著だったのではないか。それは失われていくものに対する喪の感覚であり、新しい都市への適応期間におこる代理反応なのかもしれない。実際中国のイメージもカオス的なチャイナタウンというものよりかは、非常に近代的なインスタントシティーへと移行してしまっている。

では、現在の想像力とはどのようなものなのか?一つはファンタジー的な世界観でもう一つは人工環境的な明るいユートピアというものではないだろうか?

もうすぐ公開の『スカイクロラ』では、退廃的な都市は物語の核にはなってないだろうし、幾分過去のノスタルジックな風景がみいだされる。またゴーストインザシェルの続編『イノセンス』すら享楽的でファンタジー的な要素がその世界観に見いだせる。

また、ユートピア志向としてはアキラのneotokyoとfreedomのエデン(大友さんの世界観かどうかはおいておいて)の比較や、また『アップルシード』のオリュンポスなどがこの特徴を顕著に表しているかもしれない。おそらくこのユートピア的な志向はドバイや北京のような新興国におけるもうれつな都市化を背景に形成されていると思われる。

次いであげるなら、この90年から00年代的な想像力への転換点的な作品をあげるなら宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」なのではないだろうか。この作品では、テーマパークの廃墟から、油屋のもつカオス的な世界をめぐる前半と、海を走りカゲが住む世界を旅する後半に分けられる。前者はまさにダーティーなカオス的な世界の魅力を抱きつつ、一方後者の世界は明らかにファンタジー的な空想の世界である。
アニメの世界観から時代の都市にたいする想像力を読み解く可能性はまだまだ開かれているように感じる。


映画に話を戻すと、もう一つのテーマである「身体」と「心」をめぐる問題は十分今でもアクチュアルなものであり、むしろ現実味が帯びてくるだけリアルに思えるかもしれない。
[PR]
by shinichi-log | 2008-07-25 14:43 | review | Comments(3)



日々の何かについて、建築・デザインなど
by shinichi-log
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31