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アトリエ・ワン「マイクロパブリック展」
GW、日帰り強行で広島現代美術館で開催中のアトリエワンの展覧会「マイクロパブリックスペース」を観に行った。

展覧会は、建築家ユニットのアトリエワンが2000年以降取り組んでいる人々の振る舞いによる小さな公共空間のリサーチとそれをベースにした作品と、近年彼らが取り組んだ公共的な建築プロジェクトを紹介したものだ。タイトルになっている「マイクロパブリックスペース」とは、都市計画的に作られる公による広場や公園ではなく、都市の物理的な環境と、そこに暮らす人々の慣習的な振る舞いが生み出す都市の風景のことを指す。そして彼らは、それらを先鋭化、結合、アイコン化させて生み出される移動式の装置が都市の中に再挿入し、マイクロパブリックスペースと呼ぶべき空間の生産を試みている。近年では、渋谷の宮下公園や北本駅前広場のプロジェクトにおいても、発展的に応用されている(ことが展示で示されていた。)

アトリエワンは、これまでもリサーチの結果としてのドキュメントを、これまでもすぐれた方法で提示してきた。メディアの選び方そして、単線のアクソメのドローイングなどの表現において。ともすれば社会状況の提示、社会的なプロジェクトの結果の報告に終わってしまうリサーチやプロジェクトという行為を、作品へと昇華させている。そして、それが研究になり、書籍になり、理論になり、作品になる。

展示会場には、過去に様々な場所のリサーチを通じて制作された移動式(仮設)の装置(実践)とともに、簡潔な解説文(分析)、実際に使われている状況の動画(ドキュメント)が設置され、来場者は展示物に触れたり中に入ったりしながら鑑賞することができる。これは、建築の展示によくあるような実際の空間体験を重視するというよりは、装置にふれることで生まれる身体的な身振りなどによって、異なる都市空間でのリサーチと実践のドキュメントを補強することが目指されていたように思われる。

うまく言えないが、単に実際に空間を体験できるというスペクタクルなアトラクション的な展示を目指すものではなく、実際の社会の中で構築された状況、生産された空間を美術館という制度の中で提示するための、きわめて独創的で形式的な表現の構造が用意されているという意味で、きわめて今日的なテーマをはらんだ美術展ではなかったか、と思われる。

追記・・・後半の北本や宮下公園を表現した大きなドローイングについては、敷地やその場所を利用する人々だけでなく、その街全体の施設の様相や人々の過ごし方(施設に来る前にはどんなところにいるのか、どういう人たちがいる街なのか、など)が、設計のためのコンテクストとして認識されている。3つのドローイングがどれも半屋外的なものだったのもあるだろうが、それぞれが都市に編み込まれている様が、マイクロパブリックスペースの連続として見えてくる。
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by shinichi-log | 2014-05-06 22:38 | review | Comments(0)
敷地を構築する
建築を生み出すために重要なことが2つあるとする。
一つは言うまでもなく様々な状況や条件から方法、素材を選び出し、一つの建物を構築すること。そして、もう一つはその建物が建てられる場所を、「敷地」として構築すること。それは単に場所を選ぶということだけではなく、均質な空間の中に様々な意味を見いだすことではないか。この敷地を構築することと、そこに建築を構築することは、通常の設計活動のなかで分ちがたいものとして存在している。そんな敷地の構築という部分が異様に肥大化してしまったがゆえに生み出されたような展覧会を先日みた。
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by shinichi-log | 2014-04-15 11:39 | review | Comments(0)
「かぐや姫の物語」を観て

お正月のしめくくりに「かぐや姫の物語」をみた。よく知ってる筋書きはそのままであるのに、すぐれた語り部によることで、昔話がこんなにも今を生きる物語となって展開されるのかと驚きだった。そのお話を知っているということと、物語として味わうというのは異なる体験なのだろう。今では絵本を読むことでその筋を知るということが昔話の経験になっているが、昔のようにおじいさん、おばあさんなどによって語られていたものは、その語り手の生き方も含み込みながら物語としての豊かさを包含していたのではないか。昔話は多くを語らない。多くを語らないからこそその行間に、個別の登場人物のキャラクターに、語り手の息吹が入り込む余地がある。生まれて初めてかぐや姫の気持ちに思いをはせることになるのも、このすぐれた昔話の構造を周到しているからかもしれない。そういう意味でも、これは「竹取物語」ではなくまさに「かぐや姫の物語」というにふさわしい作品ではないだろうか。

さて、宮崎作品は何度観ても変わらず面白いのにたいして、高畑作品は観れば観るほど違った味がする。今回のかぐや姫の物語も今後何度か観ていくうちに今とは違う感じ方を何度もすることになるのではないだろうか。その違いはおそらく、宮崎監督がそのメッセージの強度が、その物語が展開される世界=設定によっているのにたいし、高畑監督はそこで生きる人間の姿を通じてメッセージを描いているように思われる。宮崎監督の世界、もしくは時代は常に眩い魅力を放ち、そして独特の情景や強度を有している。それにたいして高畑監督の描く人物の想いは観るものと共に変化する。その細かい心の機微を捉えるための表現が随所に仕組まれているのではないか。だからかめばかむ程味が増すのだ。
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by shinichi-log | 2014-01-08 16:12 | review | Comments(0)
マルセロ・エヴェリン「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」
KEX2演目。芸術センターで行なわれたマルセロ・エヴェリン「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」をみてきました。あやうく当日券が販売されないかもという人気ぶり。

さて、パフォーマンスの行なわれるセンターの講堂に入ると、腰の高さくらいにせっちされた正方形の枠が設置されている。そして「入ってもいいし」、「入らなくてもいい」ということが告げられる。観客は、ここにパフォーマンスを「観る」ために来ている訳で、より良く観ようとその中へと入っていく。舞台を見に来ている以上、観たくないと思っている人は基本的に存在しない。しかし一方で、いやむしろ「観る」ために、われわれ観客は自分が出来事の中へと巻き込まれることを恐怖する。安全な鑑賞者の位置から、出来事の中心へと、観られる対象へと変化してしまうことを恐れる。

その恐れは、実はこのパフォーマンスの初めからおこってしまっている。その枠の中を黒塗りのダンサーが絡まりながら移動し続けているのだが、開始直後から枠の中にいる人々の中におかまい無しに突っ込んでいく。そうして否応無しに観客は逃げようとするのだが、しかし一方でその恐怖の対象であるダンサー達こそが「観る」目的であるので、また近づいていく。近づかないと見えないし、近づくとよけないといけない。基本的にパフォーマンスの内容はその繰り返しである。そこには「観たい」という欲望と、「避けよう」とする恐れが生み出す場。

5人のダンサーは、あるプログラムを与えられた運動体のようなものではなかっただろうか?おそらく、お互いに離れずにひたすら内へ内へと向かうという行為だけをひたすら行なう。意思や表現などとはほど遠い、純粋な行為=運動=エネルギー。

それはダンサーの身体が漆黒の闇のように真っ黒だったこととも関係している。いうなれば彼らの存在はみえないものとしてある。パフォーマンスで重視される「身体」はなく、その行為が生み出すエネルギーだけが示される。事実その移動する中心から距離をとって眺めてみると、なにか中心にぽっかりと穴があいてしまったような、その空っぽの中心のまわりをひとがぐるぐる取り囲んでいるようにみえる。「黒山の人だかり」の中をまるで台風の目のように、空洞が移動している。もっともエネルギーが高いがゆえに、何も存在しない中心。そして蛍光灯が光を鈍く反射させスパークが発生する。

その時に少し引いて、もしくは枠の外にでることで実際に目にすることができるのは、その変容する磁場に反応して変化する観客のうごめき。そのうごめきは、個体差を持ちつつも、2つのパラメータのもと、つまり「欲望」と「恐れ」によって決定されている。

途中、ふいに5人のダンサーが分裂し、静かに場を徘徊しはじめる。エネルギーの中心が解体し、小さな極が複数出来ると、観客の動きは極端に少なくなる。みな周りを伺いながら大きく動くことをせず、状況を伺いながらそろりそろりと動いていく。非常にエネルギーの不活性な状況。

ようは、観客とダンサーという区別も、その反転も、観る観られるという演劇の根源的な関係性さえも破壊されて、パフォーマンスさせられているのは単純な心理的原理を抱き、右往左往する観客そのものであり、その結果ただ「場」そのものがいかに経ち現れるのかということ実験が、まさにこの枠の中がひとつの試験管として実施されている。

ふと、現代人の多くが普段おこなっている「遠巻きに観ている」というこの行為が、実は具体的な場の形をつくり出しているそのものであるということを感じずにはいられない。
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by shinichi-log | 2013-10-02 01:05 | review | Comments(0)
チェルフィッチュ「地面と床」
KYOTO EXPERIMENTが今年も始まった。2年前、第一回のKEXにて快快やネジピジンさんなどに出会い、以来とても楽しみにしている京都のイベント。初日さっそくチェルフィッチュの「地面と床」を見に行く。先々月に大阪で「女優の魂」、昨年は福岡で「現在地」とみてきたが、今回の作品は近年岡田さんが試みてきた様々なことがある形となって、それもとんでもないものとして、結実しているように思えた。

現代的な能とでも言うべき音楽と演劇の融合は、「未だ生まれ来ぬもの」を思う母と「すでにその生を過ぎてしまったもの」としての母、「権利」と「義務」、賢者と愚者のコントラストを突きつけながらも、舞台上の「表現」によって解体され、しまいに判別が難しくなってしまう。

その表現、つまり内容ではなく形式についてである。形式と内容は連動して展開していくものだ。メッセージを伝えるにはふさわしい伝達方法が必要になる。内容は、時にクリシェと化してしまうが、その作用を異化させ、どこか別の次元へと導くのが「表現」であり、芸術のなせることの一つではなかろうか。本作はその表現の秀逸さにおいても特筆すべきクオリティを描き出している。

舞台には一枚の大きな床。各場でプロットは設定されているが、そこでの演者は、会話を交わしつつも、向き合うこと無く、それぞれの与えられた軌道上で別々の振る舞いを行なっている。その振る舞いはほとんど話しの内容と関係なかったり、なぜその動きなのか理解は出来ない。徹底的に意味を発生させることが拒絶されているように思えるし、同時に舞台全体にも安定した空間は現れず、分裂した個別的な空間が拮抗しながら、しかし美しく存在している。おそらく舞台設定という意味ではなく、意味は解体されただ「表現」のみが追求されているのではないだろうか?とはいえそれは、ナンセンスであるわけではなく、緻密にその演者同士のインターフェースがデザインされているがゆえに出現しているはずである。全体としてのプロットは共有しつつも、ベタな関係性を生み出さず、それぞれが無関係に振る舞いながらも、ある全体をなす。というのは、先に述べたこの作品が内容としてもっているメッセージそのものとも解釈できるのではないだろうか。

ともかく、これは傑作だと思った。
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by shinichi-log | 2013-09-30 11:54 | review | Comments(0)
女優の魂
チェルフィッチュの女優の魂を大阪のepockでみた。魂となってしまった女優さんが自身の女優について、演劇について、演じるということについて、まさにパフォーマティブに語るという内容。

シンプルに役者と舞台という構成だったので、役者の身体と言葉によって空間がぎゅっと捻じ曲げられる感覚がよりフォーカスされ、大変楽しかった。というセリフや身振りそのものに意味や根拠を求めることではなく、それら一つ一つが生み出す効果こそが重要なのです、というセリフはそのまま建築へもパラフレーズできてしまう。ディテールや構成、そうしたものの総体としてどのような効果、どのような雰囲気、どのような強度が生まれているのか。もう一つの主題はまさんこの作品の「強度」ということを巡って語られていたわけだが、そこには意識的な実践によってしかうまれないのか?

それにしてもあくまで覚めた目線で、それでいて嫌味にならず、ユーモアを生み出すことができる岡田さんはすごいなー
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by shinichi-log | 2013-08-08 16:22 | review | Comments(0)
倉方塾で、、、
倉方塾に呼んでいただき、ひさしぶりのRADプレゼン。
僕らにとっては、来年度からの展望をふまえて、これまでを振り返る非常にいい機会であった。
これまで、時々の状況や巻き込まれ方で進めてきたプロジェクト達を構造化するよい機会となった。

師でもある米田さんが会場に来られるという事でかなり緊張していたが、直前によった粒々堂の松村さんにお茶に誘ってもらった事で大分緊張がほぐれた。ほんとにありがとうございました。

【未整理なメモ】
さて、一通りプレゼンをしたところで、自分たちの意見表明という事に置いて不十分ではないか?そのことが何となく不可解だというような話しへと議論が進んでいったように思う。それは、各プロジェクトが並列的に並んでいるのだけれど、その全体を通しての集約されたメッセージが見えてこないという事へのいらだち、というか腑に落ちなさだと思う。そのように活動を上手く集約して編集したらすっきりとクリアに見えるという意見が一方であり、パッケージ化されていない状態をとどめいている事こそRADの活動における強みなのではないかという意見もだされた。つまり、並列的に扱う事でRADのアイデンティティがまず複数化されるのだが、そのことは個別の強度の弱さとしてありつつも、並列であるからこそ巻き込める人のバラエティや、場に適応するカタチでのプロジェクトの進化の可能性もあるだろうと。それは西洋的というよりは東洋的な思想であって、ネットワーク理論に近いものなのではないかというのが恩師のご指摘。

途中三角形をもちいた図を提示し建築的な領域の広がりを説明した。意図していなかったが、おそらくそこで言いたかったのは、要は中心の一点に集約していくような動きではなく、周囲に網の目のように拡散して広がっていくような動き方がしたいという事だったのではないだろうか。おそらくその事が、先に言われているネットワークであり、現代的なリスクヘッジという話しに繋がるのかもしれない。つまりそもそも集約化しパッケージングする事が目的ではなく、どれだけ拡散でくるのかということを僕らは問題にしていた。

そういえば、MVRDVが都市においては革命ではなく、絶え間ないevolutionこそが重要であるべきだと言っていたが、そのようにRADの各プロジェクトも発展的進化を遂げながら、状況に合わせて生き残っていくという戦略と考える事もできる。その事の価値や意味やクリエイティビティをどれだけ提示できるのかということにいなるのだろうか?

プロジェクト同士は並列的に存在し、主体性を複数化したまま、プロジェクト内部での集約を上手く進めていく事が今後の課題でであろうか?

ともかく、プロジェクト自体への質問はなく、RADという活動そのものへの疑問が集中した事がどういう事だったのかも少し考えたい。
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by shinichi-log | 2011-12-14 02:53 | review | Comments(0)
村林由貴展/GALLERY RAKU
ギャラリーRAKUで開催中の村林由貴の個展では、今ももくもくと作家本人が公開制作を続けていた。公開制作の期間はとっくに終了しているが、展示中に考えた事や思った事を終わってからでなくて、今このときに形にしておきたいのだという。

そんな「溢れ出て止まない世界」というタイトルの本個展では、京都造形芸術大学の修士課程に在籍している作家の、学部時代の人物を中心とした世界を描いたものから、木炭で描かれたうねるような線描の作品、抽象絵画のような様々な色の線が絡まり合った作品、そしてまさに今ここで制作されている作品までを一堂に会した展覧会となっている。全体的に大きな作品が多く、また大胆な色使いと、生々しい線の動きによって非常に迫力ある展覧会になっている。そうやって一同に集められた作品を眺める事で、作家の絵画への追求の奇跡を追うことが出来るのもまた楽しい。学部時代の明らかな具象性やはじけんばかりの色彩も、別の作品では消え去り、線のそのものの動きへと力点が変化しており、しかし次の段階では筆を用いることで線であると同時に色彩という問題が戻ってきている。

最も興味深かったのは制作のプロセスであった。一見すると、大画面に表現されたうごめくような線の集まりは、作家の溢れ出す想いを吐き出したかのようなものに見える。しかしながら実際はある自然物のモチーフを用いて描かれており、今回の制作でも片手に枯れかけた花をもちながらという姿が見受けられた。そうやって絶えず、花びらの持つある種の「パターン」を読み込んで、吐き出す。言い換えれば自然物から読みとった情報を、芸術家の思考(もしくは身体)というシステムに通過させて、線としてアウトプットしている。自然の様相が、彼女というフィルターを通して、変換され、まさに「溢れ出てきている」。この生成の瞬間は、単にイメージが生み出されているというだけでなく、どこか自然そのもののようにも見えてくる。そしてその線は、身体を使って描くことでより表情豊かに描写されていく。

タイトルにもあるように彼女が描いているのは、何か特定のモチーフではなくそうやって作家の身体を通過して溢れ出す「世界」なのだ。それも、世界を写し取った絵ではなく、まさにキャンバス場で生成されているという状況=世界なのだと思う。そこで生み出されているものは、世界を描いた絵でなく世界そのものともいえるだろう。

展覧会は25日まで。それまで彼女の作り出す世界は溢れ出し続けるにちがいない。
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by shinichi-log | 2010-04-21 23:56 | review | Comments(0)
睡蓮池のほとりにて/大山崎山荘美術館
先日大山崎山荘美術館で開催中の「睡蓮池のほとりにて モネと須田悦弘、伊藤存」を見に行った。

小規模ながら、美術館独自のコンテクストをうまく取り込んだ好企画だったように思う。特に伊藤存の作品は、昨年東京で観た作品に引き続き、非常にすばらしくみごたえもあった。今回始めて伊藤のスケッチなるものをみたが、極めて限定的な輪郭線、そこで起こってる事の流れのようなものを捉えようとしているように感じられ、そこから刺繍の作品のイメージの紡がれ方が連続的に捉えることができた。

先ほど美術館のコンテクストをと書いたが、それは以下の点において確認できる。
まず、伊藤の作品は単体ではなく、所蔵されているバーナードリーチやルーシーリーらの陶芸と一緒に展示されており、中にはインスタレーション的に配置されているものも存在していた。興味深いのは、刺繍も一種の工芸的表現であり、また後で述べる須田の木彫も純粋なアート表現というよりかは本来は工芸という文脈で語られる作品であることからも、工芸的な表現の射程というものを考えさせられることになる。

須田の作品は今回は、廊下などにさりげなく展示されるというよりかは、安藤忠雄の新館のモネの睡蓮の連作とが飾られている部屋の中央のスペースにちゃんと展示されている。こちらは、明確にモネの睡蓮との照応関係にあり、須田独自のハイパーリアルな木彫で睡蓮が作られている。モチーフを共にしてはいるが、むしろ、それゆえに際立っているのは両者の表現の違いだ。ともに刻々と変化する時間をある点でとどめているが、モネの中にはそれでもなお時間の重層性のようなものが見て取れるが、須田の方にはその感覚は皆無である。なんというか、写真でいえば、シャッター速度を1秒程でとったのと、超高速撮影したものとの違いのような。それは、おそらく2人の作家の世界に対する認識の、そして表現の違いであり、その対比が面白い。ちなみに、伊藤の作品は、美術館の庭の睡蓮を含むスケッチを重ねる中から生み出されている点で、睡蓮というコンテクストを共有しているが、須田のそれより幾分モネの表現に近いように感じる。そういう風に、3人の作家が相互に関係づけられて提示されることで、個別の表現が浮かび上がって来るという効果を生み出している。

ちなみに、美術館で購入できるパンフレットには、小説家福永信が作品から言葉を紡いだテキストが掲載されているのであわせて楽しむと言いかもしれない。さらなる重層的な関係性が見いだせるかもしれないから。
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by shinichi-log | 2010-01-14 03:33 | review | Comments(0)
チェルフィッチュ/クーラー・・・日常性という名のダンス
伊丹アイホールで再演された「クーラー」は、普段演劇を主なフィールドとして活躍しているチェルフィッチュのダンス作品だ。何かメッセージを物語るよりは、舞台上での役者の身体に注目した今回の作品は、数年前に上演されたものの岡田利規本人によるリメイクとなっている。変更のポイントは、音楽自体がクラッシックから今っぽい音楽へ。そして音楽とせりふ、体の動きが同期するかしないか。ということだが、当然見た時点ではそのような前情報は持っておらず、そういうことを意識してみていたわけでは決してない。

普段の演劇でもそうであるように岡田の作品は何気ない日常の動作、せりふから始まっている。今回も「今からクーラーってのをやります。」という宣言によって作り出された時間の中で男女の日常的な会話が繰り広げられる。昨日見たテレビの話、そしてオフィスのクーラーの話。確かにそこでの動作は少し異様かもしれない。しかしそれは単に異様な動作なのではなくて、改めて舞台で取り出されることで見えてくる異様さ。他人と会話するときについそわそわしてしまうとか、寒さで体をこわばらせるとか。そういう動作をきちっとやると、普段気づかなかった面白さが見えてくる。

さて、それでダンスの話になるのだけれど、予想通り舞台上でダンスは始まらない。そのかわり何度も何度も同じシーンが反復され演じられる。そうしているうちに個別の動作の意味はどんどん希薄になっていき、ある時音楽が鳴り始める。そして役者/ダンサーの声が肉声からマイクスピーカーに切り替わり、身体から声が切り離されていく。で気づくとなんとなくダンスらしい(身体が強く訴えかけてくるような表現)がたち現れてきている。さっきまで日常的風景の再現だったものが、いつの間にかダンスへとずれている。

最初に書いたように、決して音楽と身体の動きの同期性によってダンスらしさが生み出されていたわけではない。むしろそれは意図的にずらされていた。だからこそダンスが持つ意味自体を読み替え、かつダンスにみえる作品が作られている。

それはダンスというものをある特異な身体、経験として捕らえるのではなく、すでに私たちは日常の中でダンスというものに遭遇可能であるという経験の更新へと開いていく。
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by shinichi-log | 2009-11-24 22:45 | review | Comments(0)



日々の何かについて、建築・デザインなど
by shinichi-log
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