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新建築2月号にて403architecture dajiba(以下403dajiba)がこれまで浜松で関わってきた作品が掲載されている。403 architecture dajibaは、彌田徹+辻琢磨+橋本健史の3人からなる設計事務所で2011年から浜松を拠点に活動している。彼らは横浜国立大学YGSAに在籍していた時から403 architectureという団体を他2名のメンバーと共に結成し、大学での学びを自分たちの身の回りの都市空間へと落とし込む実践をインスタレーションや展示設計などを通して行なってきた。通常であれば、そのまま学生時代に築いた横浜や東京でのネットワークを生かして活動を展開するところ、浜松という地方都市を戦略的に選択することで、今の時代にアクチュアルな「建築(家)と都市」のスキームを見いだそうとしている。
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先日福岡にいってきました。
これまでなんどか長崎には行ったことがあったのですが今回は初、福岡でした。 前日の21時半のバスに乗り込み、朝8時着のその日の夜22時初のバスという弾丸出張でしたが、天気もよく、またテトラの小山さんの名ガイドにより大変充実した滞在になりました。 ![]() 今回は、つい先日福岡の平尾にできたFUCA(Fukuoka Urban Community of Art)の1階イベントスペースを会場に、約一ヶ月間福岡市のリサーチを行なおうという企画の調査、打ち合わせ。 「RESEARCH STORE」というのがプロジェクト名になっていて、このFUCAを拠点にマクロ/ミクロの様々なリサーチ(イベント含む)を期間内に実施して、その記録を貯めていく(ストア)していくというイメージです。そして、単にあるジャンルの人だけが関心のあるではなく、街全体が共有しているSocial Issueを発見することを目的にしています。 ![]() 福岡は不思議なことに、これぞという街並、都市景観が見いだしにくいというのが印象でした。とはいえ、街中に公園含むオープンスペースも多く、中心街近傍に複数のクリエイティブスペースが点在しており、そのあたりは非常にうらやましい環境でした。 そして、平尾周辺は小さないい感じのお店が増えてきている良い感じのエリアで、街の周辺部が面白い街に生まれ変わりつつある気配を感じさせてくれる場所です。 さてさて、正式リリースはもう少し先になりますが、もし4月中旬から5月中旬にかけて、一緒に福岡の都市リサーチに参加してくれる人がいましたら、学生、社会人とはず連絡お待ちしています。 また、こんな面白い日といるよ!とか友達がこんな変なことしてるとか!の情報も募集中です。 よろしくお願いします。 連絡先:info@radlab.info
無事、入居者きまりました!
お問い合わせくださったみなさまありがとうございます。 ****** 三寒四温。徐々に春らしくなってきました。 さて、長年空き室になっていたはなれの2階の2部屋の住人を募集します。いわゆるシェアハウスです。母屋が共有部、はなれが個室、少し古いですが昔ながらの雰囲気がよいかんじです。アクセスもよく四条まで自転車で20分、最寄り駅へも徒歩10分です。京都府立大学、京都工芸繊維大学、ノートルダム女子大学へはすぐです。母屋の2階はゲストルームになっており急なお客さんにも対応できます。また、日本各地、海外からのお客さんが滞在される事も多く、思わぬ出会いもあるかもしれません。4月からの入居募集ですが、時期は相談にのります。 個室面積:9㎡ 共用部面積:約60㎡(ラウンジ、ダイニング、キッチン、トイレ、洗面所、風呂、洗濯機、冷蔵庫、庭、自転車置き場、ゲストルーム、ほか) - 私を入れて合計4人のシェアハウスになる予定。 - 大家の都合により(男性)限定 家賃・22,000円+共益費・4000円 保証金・家賃2ヶ月分 住所・京都市左京区下鴨北園町 アクセス・地下鉄松ヶ崎駅or北山駅徒歩10分 ・市バス北園町徒歩2分 見学、問い合わせはこちらまで。。。 連絡先:shinkawakatsu@gmail.com ・個室 ![]() ・キッチン ![]() ・庭(奥がはなれ) ![]() ・ダイニング ![]()
建築の展覧会のもつ役割とは何だろうか?
今回の展覧会の準備を進める中で感じた事は、予算や敷地、その他の社会情勢、クライアントの好みなど様々な条件によって規定される実施プロジェクトでなく、展覧会ではその人の建築的思考を純粋に見せる事が心がけられる。おそらくそこで試みられる事は、普段の建築の中に現れでている何かに違いない。けれども、その成立する条件の違いによって全く見え方が変わっている。思考というある種概念的なものを見せるには、できうる限り現実のノイズが取り払われた状況を用意する必要があるのだ。だから、建築の展覧会で行なわれるべきは、この「0地点」とでもいうべき状況をまず設定することではないか。それは実際の展示空間の整備に始まり、建築家の頭の中から普段設計において必然的に考慮に入れざるを得ない諸条件を取り除く事、そして作品制作においては「0地点」を演出するためのディテールの改良などにおよぶ作業である。そうして、科学の実験室で世界のモデルとなりうる現象や理論が実験によって実証されていくように、展示空間という「0地点」において建築を成り立たすということは、この各建築家の建築的思考=世界モデルの課程を実証する場という事ができるのではないだろうか? 追記 模型において構成要素となるものには縮尺が与えられても、そこに作られる(作り出そうとしている)空間は1/1であらわれるから意味があるんじゃないかな。実際の住宅とかの建物になると1/1なんて言わないのに、展覧会でのインスタレーションなんかになると1/1ってあえて言うのもなんか変。1/1といえども「建物」でない以上それは大きな模型以上の意味合いを持っていないという事なのかな〜。となると、重要になるのは体験の「らしさ」にいかに近づくかということになってくるのか。であれば、別に何分の一の表現でもやりようによっては「らしさ」に近づけるだろうし、となるとやっぱり空間は1/1でしか現れないってことに話しが繋がってくるのか。
再訪といっても、もう何十と足を運んでいる建築。けれども今日は改めていっこの建築の魅力を再認識したという意味で再訪というべきものだった。それはおそらく外国人のアテンドという役目で、それゆえ他人の目を通してということも理由としてあるのだろう。
![]() ということで、今日気付いた事をメモしておきたい。 ・まず、立て替えが問題となっている第一ホール。現在のホールの台形の屋根ボリュームは中庭から見ると三角形に見え、そこから日本的な特徴をもつ庇のデザインとあいまって、日本のお寺の大屋根のように見えてきて、印象的なエレベーションを作り出す。そうなると庇より下の柱梁の構成が木造建築のような軽やかさをどんどん際立たせていく。普段は昼間のガラスが不透明な状況でみていたのだが今日は夕景でガラスも透明性の高い状態でより強調されていたように思う。また、一般的に隣の和風のコンクリート建て美術館別館は、評価が低く、正直ないほうがいいのではないかと思わせられる事もあるが、京都会館の意匠との対比という意味では大変意味のあるモノに感じられた。よって、今回の提示されている改修案での中庭側のガラスの箱は、上述の近代建築と日本的空間構成というコンセプトからを大きく損なってしまうのではないか?それは、致命的に建築の持つ価値=その建築が実現しようとした理念(それは否定された訳でも、時代遅れになった訳でもない)を損なってしまうに違いない。 ・ピロティの床のペーブメントがホール一階と同じということも知ってはいたが実感として再認識。内部的な外部として扱われている事が明確に、と同時にホール一階が外部的な内部として考えられている。これは先日のこのピロティでのピクニックの時に感じた内包される感じを作り出している考え方であるように思われる。 ・ホールのエントランスが1Fにあることによって表現される平等な市民社会という理念。まさに建築に理念を感じた瞬間。人がすーと地続きにホールに吸い込まれていく。非日常へ誘う豪勢なアプローチではなくあくまで親しみさるそぶりで人を招き入れている。ここに建築家の社会に対する理念が感じられ、それが空間的に現れていることに非常な感動を覚えた。 今回、なんども見ていた京都会館に関して、非常に新鮮な経験をすることができた。誰かに一生懸命説明しようとする事で、新しい気付きや再発見もあり、また印象や感想を言葉にまとめるよい機会になったのだろう。へたくそな英語ではあったが、伝えるべき事があれば伝わるのだという誰かの言葉を思い出した。 にしても、京都市には見学申し入れたのに、結局返事がなかった。もしかりにこれをきっかけに京都会館が世界遺産への道を歩むという事になったかもしれないのに、残念なことである。京都会館を世界遺産に。それがいい事かどうか賛否あるだろうが、今起りつつある事態に向けた一つの可能態として心にとどめておきたい。 ![]()
先日のジャカルタの都市研究についてのインタビューを受けて思った事。
日本人建築家の十八番ともいえる個人住宅。けれども中国のように全ての土地が国の所有である場合、都市部では大規模な開発で集合住宅を建設するという事態がおこってくるため、個人住宅というリアリティが全然わかないというのが現状らしい。そうなると、日本で住宅をたくさんつくって実績を積んで、中国のマーケットにといっても中々理解が得られないという事も起こりえそうだ。けれども、都市化が進んでいるのはなにも中国だけでなく、インドネシアなど多くの国は日本(というか多くの国)と同様に、個人が住宅と土地を所有している。その上インドネシア政府は公共住宅の共有をほとんど行なっていないという事なので、タイプはあれど基本個人住宅によって都市が造られているともいえる。現状では、その地域の大工さんが住宅の建設に関わっているらしいが、日本同様世代が進むにつれて起る土地の細分化や、都市化による環境変化にたいして、建築的な有効な対応がとれていないらしい。なので、もしかしたらそういう場所には日本の建築家の住宅分野での豊富な経験の蓄積が多いに役に立つのかもしれないな、などと考えてしまった。中国のその先に。
さて、京都は碁盤の目を持つ非常に人口的で抽象化された都市基盤を持っている。それゆえ、町家(+長屋)という単一の形式をグリッドの中に効率よく展開し、普及させる事ができたのではないだろうか。結構道路がまっすぐで、街区のスケールも同じくらいというのは材料の規格化にも都合が良かったに違いない。そうしてつくられたのが、町家の連なる伝統的な美しい街並だった。少し前までは。現在では、そのような町家が比較的多く残るエリアも存在するのの、基本的には日本中どこにでもあるようなマンションや商店、建て売り住宅の中にたまに町家が残っているという言ってしまえば凡庸な風景で覆われている。それは、もちろん適切な都市計画や保存が行なわれなかった政策上の失敗でもあるのだけれど、グリッドの抽象的な都市構造は、町家の街並を形成するにも都合の良かったが、よく考えれば都市を均質化するという作用をそもそも強く持っていたんではないかと考えてします。だからこそ、町家という単一のシステムで街を覆うということもしやすかったし、全体的に中庸な都市が出来上がるのも簡単だったと考えれなくもないのではないか?逆に、谷や山といった地形によって少なからず都市空間が規定されている東京の印象は、全体的に同質というものではない。抽象的な仕組み以上に、地形の持つ力が残っていて、影響を今も昔も与えているからではないだろうか。1200年の間幾度かの消失を経てもなお都市を維持しえていることもこのグリッドによる効率のいい生成力によっているのかもしれない、とすると条件さえ上手く設定できれば街並の誘導も比較的行ないやすいとも考えられないか。条件を比較的揃える事が可能であるのだから。
メモ程度に。
建築はライブでしか体験できないので、それ以外の建築の伝達は2次的にならざるを得ない、というベタな話しがあるとして、現状その問題は建築にとどまらず、表現の世界ではどこにでも起っている問題なのではないだろうか? サイトスペシフィックということで美術館からアートがでていったり、どうアーカイブするかという問題にも通じると思うけれど、これについてはmuseumの巨大化などによって物理的に再回収(そのために箱自体が最適議されるとうう逆説もありつつ)されたりしてきた。しかし、現在おこっているのはものではなく関係性であったり状況であったりとよりアーカイブが難しくなっている。また、第三者が後から見た時にそのライブでの体験との差異が、視覚的な作品とは異なったカタチで生まれてくるということは明らかだろう。(建築でも建物を作ることだけではないコミュニティのなかでの振る舞いそのものが評価対象となる状況がうまれつつあるように思われる。) ライブで起った出来事や状況そのものが制作物として目指された場合、それはどのようにアーカイブされていくのだろうか?どのように伝達が目指されるのか?これは、建築においては特に展覧会という形式に置いてその困難さが露呈してしまう。また、大型のインスタレーションでの乗り越えというアプローチをとったとしても、アーカイブの問題は残る。例えば、川俣正のようなアーティストの作品が美術館に収蔵されるときなにがどのように収蔵されるのか?だから、建築が抱えるこのアポリアから、現在のアートを含むライブとアーカイブが分離した制作物においての伝達の方法や困難さについて考えることができるのではないだろうか? ということをふと思った。 ![]() 今年もよろしくお願いします。 ともう何度書いたことか、そろそろいいだろうと思いつつ、昨日は新年会で書き初めというものをおそらく人生初で書きました。たしか「先手必勝」って書きたいと朝は思ってたtのに、忘れてしまい結局「先取先制」。まあ意味はほぼあっているのでよしとしよう。 昨年は、物事を後手後手にまわしてしまうことでいろいろ冷や汗かいたり、迷惑をおかけしてしまったりしたので、今年は少しでも先回りで物事を進めることができるようにしていきたいという思いを込めてみました。 とにかく、3月までの今年度をしっかり締めくくるというのが当面の目標。 ちなみに、10月にパリで行なった展覧会のカタログ(120分DVDつき)が販売開始になりました。以下のリンクからご購入下さい。建築系の書店にも随時置いてもらえるように動いていきます。よろしくです。http://kenchiku-architecture.com/#news/news_8
部分だけしか聞けなかったが、昨晩のsocialkitchenでの佐々木敦氏のレクチャーを聞いて。
佐々木氏本人も終了後のツイッターで非常に面白かったと興奮気味に語られていたように、後半にかけて盛り上がっていったのだが、基本的には「日本の思想」から「未知との遭遇」に至り、加納+高橋展のタイトルでもある「パズルと反芻」について語るという内容だった(ようだ。) 日本の思想が、80年代、90年代、00年代はゲーム盤の上での「ゲーム」が「反復」してきた事に対し、テン年代はそのゲーム盤(どれだけわかるを提供できるか)から抜け出さだす事が必要とするのが「未知との遭遇」で語られている事のようだが、キーワードとして「日常」と「なぞ」ということが言及されていた。ここでは主に後者について書いていく。 「なぞ=よく分からないもの」と考える。 More
倉方塾に呼んでいただき、ひさしぶりのRADプレゼン。
僕らにとっては、来年度からの展望をふまえて、これまでを振り返る非常にいい機会であった。 これまで、時々の状況や巻き込まれ方で進めてきたプロジェクト達を構造化するよい機会となった。 師でもある米田さんが会場に来られるという事でかなり緊張していたが、直前によった粒々堂の松村さんにお茶に誘ってもらった事で大分緊張がほぐれた。ほんとにありがとうございました。 【未整理なメモ】 さて、一通りプレゼンをしたところで、自分たちの意見表明という事に置いて不十分ではないか?そのことが何となく不可解だというような話しへと議論が進んでいったように思う。それは、各プロジェクトが並列的に並んでいるのだけれど、その全体を通しての集約されたメッセージが見えてこないという事へのいらだち、というか腑に落ちなさだと思う。そのように活動を上手く集約して編集したらすっきりとクリアに見えるという意見が一方であり、パッケージ化されていない状態をとどめいている事こそRADの活動における強みなのではないかという意見もだされた。つまり、並列的に扱う事でRADのアイデンティティがまず複数化されるのだが、そのことは個別の強度の弱さとしてありつつも、並列であるからこそ巻き込める人のバラエティや、場に適応するカタチでのプロジェクトの進化の可能性もあるだろうと。それは西洋的というよりは東洋的な思想であって、ネットワーク理論に近いものなのではないかというのが恩師のご指摘。 途中三角形をもちいた図を提示し建築的な領域の広がりを説明した。意図していなかったが、おそらくそこで言いたかったのは、要は中心の一点に集約していくような動きではなく、周囲に網の目のように拡散して広がっていくような動き方がしたいという事だったのではないだろうか。おそらくその事が、先に言われているネットワークであり、現代的なリスクヘッジという話しに繋がるのかもしれない。つまりそもそも集約化しパッケージングする事が目的ではなく、どれだけ拡散でくるのかということを僕らは問題にしていた。 そういえば、MVRDVが都市においては革命ではなく、絶え間ないevolutionこそが重要であるべきだと言っていたが、そのようにRADの各プロジェクトも発展的進化を遂げながら、状況に合わせて生き残っていくという戦略と考える事もできる。その事の価値や意味やクリエイティビティをどれだけ提示できるのかということにいなるのだろうか? プロジェクト同士は並列的に存在し、主体性を複数化したまま、プロジェクト内部での集約を上手く進めていく事が今後の課題でであろうか? ともかく、プロジェクト自体への質問はなく、RADという活動そのものへの疑問が集中した事がどういう事だったのかも少し考えたい。
長坂常さんのレクチャーと行き帰りの電車の中で読んでいた一般意思2.0、13章がおもしろいくらいにつながって読めてしまったので、その事を少しメモ(以下は思いつきのレベルをでない上に、文章も支離滅裂だ。関連付けに根拠もないし、説明も十分でないです。その辺りご了承ください。)
さて、一般意思2.0の中で東博樹はアメリカのプラグマティズムの哲学者ローティによるアイロニスト(アイロニーを実践する人)の定義を紹介している。 「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物」(ローティ) これがローティによる定義なのだが、ここでいう偶然性とは「たまたま」という感覚を指している。ゆえにそれは東の記述によると、「あることの普遍性を信じながら、同時にそのものが特殊である事も認める」人ということになる。この「2つの矛盾する主張を同時に信じる」ことに如何に耐えるのか。 さて、これがどのように長坂さんの話しに繋がるのか。話しの中で「これでいいいのだ」という価値観を大切にしたいという長坂さんの言葉があったのだが、これはつまり「これがいい」というカント的な主観に根ざした絶対的な価値観によってモノをつくるのではなく、「これでいい」という態度によって、その事自体は確かだけれども当時にそこに外部としての他者を受け入れることを許容する という意味において非常にアイロニカルといえるのではないか? 建築家は、引き渡しという時間的な切断を行なわなければならない故に、その時点での完成形を目指して建築をつくる。しかしながら、それはひとつの完成形ではあるものの、同時に他の完成形の姿を許容する建築のあり方。 もう一点、この章の最後に自由について議論が紹介されている。 自由とは、主体の意識的な行為を何事も妨げられないということを意味する。自由を信奉する人の事をリベラルとした上で、ローティはリベラルであるという事を「理念を必要としない、身体的な反応(=無意識)を意味する言葉としてとらえ返し」ていると東は述べている。 長坂さんのスライドもまた自由になりたいということから始まっていた。自由とは何であろうか?自由を獲得するためにはどうすればいいのか。自分の意識を先鋭化させて何ものにもとらわれず自分の表現を突き詰める事が一般的には自由であると考えられているが、長坂さんの場合はそうではない。そのような行為は逆に多様である事、自分以外の何かを受け入れる事の可能性を取り除いてしまっていると考えているようだ。では、自由はどのように獲得されているのか?ここで長坂さんがきわめて限定的な行為「とる」「削る」「切る」「流し込む」によってデザインを行なっている事を思い出したい。単純な行為=操作。それは先の言葉で言うと「身体的な反応=無意識」を呼び起こすためのきっかけではあるまいか。ローティの自由の概念が一般的なものと異なっているのと同様に、長坂さんの自由も、これまで建築家や芸術家が目指してきた自由と実は正反対のものとして構想されているのかもしれない。 この自由を巡る態度は先のアイロニーの議論と繋がってくる。アイロニストである長坂さんは操作の限定性(=何でもできるではない)によって、最大限の自由を建築の中に生み出せるのではないかと信じている、そう考えれなくはないだろうか。。
ウルトラファクトリーCritical Design Lab.とAFH(Architecture for Humamity)が宮城県南三陸町志津川地区に番屋(漁師小屋)を建設する恊働プロジェクトをおこなっており、RADも参加している。今日、そのリサーチ結果の発表が参加している学生から行なわれた。その模様はここhttp://togetter.com/li/221599にまとまっているので、思った事を少し。。。
震災によってそれまで家族経営で別個に漁を行なっていた漁師さん達が今協業での漁を行なっている。実際行ってみて驚いた事に、それまで漁師さん同士の交流はあまりなく、お互いの漁の方法や加工する機械すらよく知らないという状況だったらしい。いわば商売敵同士であり、また穫るものが違えば漁の時間も違ってくるというのが主な理由だろう。なので、震災を機に(実際実に多くのものを漁師さんは失っており、簡単に言う事はできないのだが。協業化の一番の原因は設備のシェアでもある)これまで分断されていた漁のノウハウが共有されたり、うまくタイムシェアリングが起る事で、震災前よりも効率的で計画的な漁業の姿を描く事ができるのではないだろうか。 今回建設される番屋もここ最近は利用されておらず、ヒアリングの際もその使い方のイメージは漁師さん毎にことなり曖昧なものだった。おそらく漁が個人単位になったこともあって、あまり協業の場としての番屋が使われなくなっていったのだろうと推測される。なので、今回番屋を建設する事は同時に、新しいこの協業化という動きと連動するものでなければならないのではないか。新しい働き方によって番屋の使われ方がみいだされ、また番屋によって協業化の流れが確かなものになり、これまでにない働き方が生まれてくる。そのように建築がこの土地の漁師さんたちと復興という道のりを歩んでいく事を願っている。 プロジェクトは、来年の春頃まで続く予定。
ウルトラファクトリーにて、パーソンズ美術大学のキャメロン・トンキンワイズ氏と、AHFのナサニエルのトークイベント「サステナブルデザイン」とは?に参加
以下、キャメロンがサステナブルデザインにとって重要なポイントとして語った内容を簡単にまとめ。 1、Social Networking ソーシャルネットワークそれ自体ではなく、コミュニケーションのツールの変化によってコラボレーションの方法が変化。人=human energyを対象にすることが重要になってくる。 2、Amplify hidden Share 世の中の目に見えない"Share"をみつけだし、展開していくという事。近代的な社会システムは"buy=所有する"によってなりたってきた。郊外はまさに、家、車、家電を個人が所有する事によってしか始まらない生活空間。所有という概念を帰る必要があり、その代替がシェア。様々なシェアのプラットフォームがうまれつつある。しかし、そもそもシェアという状況は社会の中に存在している。その見えないシェアを発見して増幅することによって、シェアの役割りが強化されていく。それがデザインにとって重要。 3、Service design プロダクトだけでなくその先のサービスデザインまでを考える事。design for peopleでなく、desing between people(おそらく)。ある種のサイクルを考えるという事。 非常にわかりやすくまとめられている提案だと思う。注意しておきたいのは、これが主にヨーロッパで見受けられるということ。つまり、日本は日本のサステナブルについて考えないと行けないし、オーストラリアはオーストラリアのそれを見つける必要があるという事だろう。もし、単一のサステナブルを世界中に適応するのだとしたらそれこそ近代と同じ轍を踏むことになる。 最後にもう一点。キャメロンはデザイナーという語が不当に多くを担わされていると考えているようだ。つまり、デザイナーとイノベーターは分けて考える必要がある。イノベーターとは、オリジネーターであって、新しいアイデアを発明する人のことで、アーティストや起業家のようなひとを意味する。それにたいしてデザイナーとは、そのように発見されたアイデアのエッセンスを引き出し、生産のラインに載せる事で生活を豊かにする人間の事をいう。そして、現在ではこの「エッセンスを引き出し」と「生活を豊かにする」の間が変化してきていると言えるのではないだろうか?
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