QuerycruiseはLマガジンに情報掲載されたものの厳しい状況はつづく。。。
造形大での市田良彦氏のレクチャーへ。ポストモダンを「新しいことはない」「決定不能性」と定義し、そこからポスト・ポストモダンとでも言うべきその後の状況が、リオタールの転換を指し示しながら提示されていく。(リオタールのユダヤ主義化や80年代後半からのレヴィナス人気)。そこでは、「決定不可能性」が「他者」や「崇高」という概念に結びつきつつ、ポスト・ポストモダン=「倫理」ではないかと述べられた。 簡単に言うと 「決定出来ない」(「表象できない」) →「決定してはいけない」(「表象してはいけない」)・・・倫理の問題 への変化として捉えられる。具体的には、クロード・ライズマン『ショアー』における非ホロコーストの表象不可能性と、アウシュビッツの4枚の写真をめぐる表彰してしまっていいのかという問題として提示される。 さらにここでは〈他者〉(表象不可能性)をめぐって、政治と美の問題が〈倫理〉という点において出会うとされる。 しかしその〈他者〉を設定するということは、我々という公共空間とその外部として排除するという理論であり、ある意味で非常に古典的な共同体感に繋がっていくことになる。 それに対して、ランシエール()が提示する共同体は、「他者との抗争によって生まれる共同体」とされ、絶え間ない〈移行プロセスがつくりだす共同体〉となる。 その抗争の舞台にみんなが立っているかといばそうではなくて、その舞台に上がる前と後というプロセスを考える必要があるのではというのが市田氏の主張。そこでカギとなるのが芸術や文学といった感覚レベルで分断線を組み替えるモノになる。この感覚レベルでの思考の変化によって、移行が起こり、政治と芸術が接続するのではないか。そういう意味でも芸術やアートが持ちうる力や役割に期待を持っているということであった。 (良く理解できてないので、意味不明のまとめになっている。。。)
by shinichi-log
| 2008-10-29 00:11
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