7月5日東京国立近代美術館にて開催中の「建築がうまれるとき
ペーター・メルクリと青木淳」に関連して講演会が行われた。 開始10分前に行くと会場はすでに満員で中に入れないという状況。なんとかお願いして入り口付近で立ち見できる事に。 講演会の主な内容はまさに「Mのスタディー」について。展覧会よりももう少し具体的(敷地の写真が紹介され、どう読み取ったか)に、「M」という住宅ができあがる過程が模型写真とノートのスケッチから説明された。最初の塔状のヴォリューム、面心構造、不整形、カメラ、端部のカット、屋根の分岐、再びシンプルな方向へ、中庭の消滅、二重皮膜・・・。様々なfactorに分解して、それを順番に解決していくというよりかは、ある形を作るルールを、条件にあうように適応していき、それが魅力的になっていくのかどうかが重要で、魅力的にならない(面白くない、先が見えてしまう)場合は、連続性よりも新しいルールがつくられ適応させられていく。そうして様々な建ち方が示された末に提示されるのは、条件をクリアし、最も魅力を感じさせるルールが見つかった時なのだ。 内容とは別に、語り手としての青木さんのポジショニングも興味深い。最初に模型を作ったのは自分ではなく、所員が考えた案の場合はそれを隠す事無く提示して、なおかつ突っ込みを入れる。また随所に使われた「こうなっちゃった」とか「気付いた」という言葉からは、対象と自分を切り離しているような印象を受ける。それは、ルールと条件から必然的に現れてくる「形」を、再び見いだしていくという事の現れなのかもしれない。パワーポイントの使い方もユーモアあふれるもので、案が発展して進んでいくような場合は、ぱたぱたと写真が倒れて移り変わるように、また全く別の案に向かう時は、水に流すという意味で水の波紋とともに移り変わる。 質問の時に多くの人が思ったであろう事は、あまりにも坦々といろんなアイデアが試され新しいものに取り替えられていく様を見せられたので、一貫したコンセプト、もしくはテーマが存在しているのかということだったのではにだろうか?青木さんは昔から「動線体」「ルールのオーバードライブ」「原っぱ」とか魅力的な言葉で建築を説明されてきただけに、そういうキーワードも無く一貫したテーマも示されない事は少し期待を裏切られたように感じなくもない。 その事に対して青木さんは、自分自身の興味は移り変わってるとしつつ、少しの事で普通と違って見えるもを作りたいという。それは嘘っぽいもの、まるでCGのようで、モノとしてあるのにモノに見えない状態。それは結構すごい事なのではないかと。 またそれは、デザインの意図が分からないようにデザインする、そして作為の無いようにたまたまそうなっているような状態が「原っぱ」なのだという事だった。日常性からかけ離れるのではなく、日常にものすごく近しく接していながら、全く異なった存在になる事で作り出される違和感。 この青木さんの説明を聞いて思い出したのは、研究会の機関誌「Rice vol,3」の中で、メンバーの一人が「違和感という雰囲気」というタイトルで、青木さんの建築をデペイズマンというシュールレアリスムの概念を使って分析している内容だ。そして違和感のあり方を、もの同士の関係性がつくりだす(普通の部屋に異様に大きいリンゴがあるなど)「下意識」に働くものと、質同士が作り出す「前意識」に分類している。そして青木さんの建築にはこの「全意識」に働きかける違和感があるという。 いつも平易なことばで建築を語ってくれる青木さんの建築は、複雑とは違った奥行きと、派手さとは違う不思議な佇まいを、そして分かりやすい説明と同時に大きな謎を投げかけてくる。その謎を解きたいような、いつまでも謎の中に浸っていたいような気がする。
by shinichi-log
| 2008-07-06 08:17
| Lecture log
|
最新の記事
以前の記事
2016年 07月2016年 06月 2016年 04月 more... 検索
カテゴリ
全体daily RAD Lecture log review 告知 dezain.net その他のジャンル
外部リンク
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||