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「零度のエクリチュール」
ロラン・バルト
1953年Paris

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本書は1部でエクリチュールの概念と例(政治的エクリチュールや小説のエクリチュールやら)を提示し、
2部でエクリチュールの歴史を語っている。古典主義以前からはじまりブルジョア時代、そして最後はユートピアという語でしめている事からも分かる。

1、エクリチュールとは何か

私たちの身の回りの言語としてあるのは、
「ラング」・・・言語。「ある時代の書き手全員に共有されている規則と習慣の集合体。」水平性
「スティル」・・・文体。「作家の身体に閉じ込められた記憶」生得的なもの。作家の身体と過去から生まれてくる。垂直性
これらは作家にとって一つの自然。可能性の制限と、選びとる事が出来ない必然。


ではエクリチュールとは?
「何も意味していなかったが、しかし示していた。何をか。・・・これがエリクチュールの例である。(バルト)」

「それゆえエクリチュールとは本質的に形式の倫理なのである。社会的な場を選択する事であり、、、(バルト)」

つまり、エクリチュールとは何かを意味するものではなくて、自分と歴史との関わり合いを選択する書き方(形式)のようなものである。社会に参加する立場の表明(示す事)がエクリチュールであり、意味内容よりもエクリチュールの選択こそが重要になっているという認識をバルトは示す。

ここには当時バルトに多大な影響を与えてたサルトルのアンガージュという概念が大きく影響しているように思われる。サルトルは、人間はそもそも自由な存在だと見られているが、そうではなくて、人間は時代と社会の状況に“拘束されている”と見、自由はこの拘束とぶつかることしか生まれないとした。そうだとすれば哲学者や学者作家も、時代状況と徹底してかかわっていくことからしか、その使命を見出せないのではないか、という。


では零度のエクリチュールとはなにか?
「零度のエクリチュール」(新版)には付録として、1947年に新聞に掲載されたまさにバルトのデビュー作となる同名の論評が掲載されている。そこではより直接的に零度のエクリチュールについて言及されているように思われる。
ここでは、中性のエクリチュールや、零度の文体、などといった言葉が使われている。ようは、何らかの主義や主張が込められていない、それらの不在によって作られているのが「零度」という状態だと語られている。バルトによると、サルトルは描写という基本的な言葉の力を信じて、あらゆるレトリックを取り去って「完全に身をさらしたエクリチュール」、「いかなる秘密をも保持しないという点で粗野なエクリチュール」を手に入れ、それはエクリチュールにおける新しい要素だと言っている。

数年後にあらためてまとめられた著書のほうでは、このあたりは「エクリチュールと沈黙」の章で「白いエクリチュール」としても語られている。古典主義以降(1850年以降)人が何かを書く事は、何らかのエクリチュールを選択する事であり、社会的、歴史的に必然的にとらわれてしまう。白いエクリチュールとはそのような、何らかの立場の表明を否定する中世的で不活性なエクリチュールであり、ここに本書のクライマックスがあるように思われる。
しかし、その白いエクリチュールすら徐々に「形式神話のとらわれ人」にされてしまうのだが。



整理・・・
エクリチュール=何かを(社会的立場、歴史性)を示すもの。それは内容や意味をこえて作者を拘束してくる。

零度(白い、中性の)エクリチュール=何をも表明しないエクリチュール、最後の転身である不在。社会参加に飲み込まれる事は無い。・・・しかし、「否定の動きそのものと、それを持続的に実現する事の不可能性とが容易に認められる。(バルト)」

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零度のエクリチュールから読み取れる問題系

当時バルトはまだソシュール言語学に関心を持っていなかったらしく、エクリチュールという概念は、後の記号学的というよりは、よりサルトル的な問題系によっているような気がする。しかし同時に、意味内容を持たないエクリチュールというのは、シニフィエ無きシニフィアンということになる事からしても、ソシュールとの関係は容易に見いだす事が出来る。書き方つまりエクリチュールが、語の意味よりもよりその作者の主義や主張を示す物になっているという状況を示している。それは、後に「表徴の帝国」で示される「空虚な中心」という問題系にも繋がっていくだろう。
・何をも示し得ない(零度、白いエクリチュール)→読者による多様な読解の可能性?
・シニフィエとシニフィアンの分離→シニフィエ無きシニフィアン(意味内容を持たない記号)、外観への注視?

そういえば昔、特定の意味を持たず多様な意味を誘発するような表徴のことを「零度の記号」と呼ぶというふうに聞いた時に感じたのは、その命名のうまさと同時に、そのような記号すら一つの意味に回収されてしまっているという現実でした。

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少しだけ建築にからめて。
バルトの零度の概念や、シニフィエとシニフィアンが分離すると言ったことが、少し後のポストモダンにどのように結びついていったのだろうか?建築にもう一度豊かな歴史的な意味を持たせようと様々な記号の戯れがおこったポストモダニズムという考え方とバルトをうまく結び合わせるのは難しいのかもしれない。確かに意味と記号を分離した事によって、記号が自由に飛び交うようになったと言えるかもしれないし、内面よりも外面の重視という読みをするならば少しは当てはまるようなきはする。

しかし、バルトが提示したエクリチュールを巡る議論や零度という概念はむしろ現代でこそ参照可能なような気がする。

建築物も様々な制度の中で規定されており、同時にそこで生きるひと意図をも規定してしまう。どうすればこの規定性から抜け出せるのかという事への回答として、零度のエクリチュール(記号)が持つ、何も意味しない状況を作る事が出来るのか?という事が言えるかもしれない。

例えば、藤本壮介は始源にまで立ち返りつつ、既存の意味にまみれていない新しい形式を作り出そうとしている。それは、自己のみを参照しているので、それ自身以外の意味を持たない。そうすると建築にはあらかじめ規定が加えられるのではなく、訪れる人(読者)に多様な意味が生成される余地が与えられるという事が出来るかもしれない。また意味を無くした記号というのは、建築的にいいかえれば廃墟の事かもしれない。そうするとリノベーションの本質という物が見えてくるかもしれない。ルールやシステムという物のドライブによって作られる私意性を排した形態という物ももしかすると、零度の記号性を有していると言えるかもしれない。

少しミスリーディングかもしれないけれど、その他、表層の話とかにもうまくつなげていけそうな気がしました。

以上、だらだらなってすいません。
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by shinichi-log | 2008-06-10 19:03 | Comments(0)
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