幽玄について
なんとか一晩かかってレポートをかきあげた。

このように一つのテーマにもとづいて、集中的かつある量の資料を見、考えをまとめるのは、なんとなくの考えを積み重ねていくより知識がしっかりと身に付いていくように感じる。あたりまえではあるけれど。
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ところで重森三玲の枯山水論の中に幽玄という考えが出てくる。
幽玄とは古くから日本文化一般の中に美の形式として考えられてきた。もともとは和歌の上において重要視されていたものであった。
平安時代においては、歌の上に別の景気が添うている事が重要であり、「花に霞み」というようにある自然現象に、もう一つ別の自然現象を重ね合わせる事で、本来の実態を隠したり、紛らわし、調和せしめるなどしながら別のものへと統合されていく場合にのみ、歌が有り、芸術があるというのが幽玄と言ったらしい。
ただ物事がそれ事態としてのみ現れているのではなく、その先に現れえぬものを表現する事が大事ということであろう。叙景のうえに叙情を、または叙情のうえに叙景を表現するのか。
とにかくそれらが一体化して立ち上がってきた時にのみ芸術があらわれるとされている。

『秘すれば花』という世阿弥の有名な言葉もこの幽玄の上に成り立つのである。

三玲はこの幽玄の考えを枯山水庭園に持ち込み、複雑化の統一の中にある美を見いだそうとする。たとえば龍安寺の15の石は各々異なった表現をもっているが、いったん白砂を海と見立ててみることで、庭全体が海景というもとで統合されいくという事をあげている。


しかし、この幽玄という考え方を聞いてまず思いついたのが、先に研究会でも取り上げた雰囲気という話題であった。結局和歌などにみられる幽玄というのは、花とか、山とか、実体的なものに、ある種の関係性を作り出し統合する事で、非実体的な情動性を生み出しているように感じられる。秘しているということは静ではなく、つよい動的な力を備える事になり、見る人聞く人の心に作用するのだろう。

幽玄のもつ、現象を重ねる事で見えているもの以外のものが感じられるというありかたは非常に面白いとかんじる。
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by shinichi-log | 2008-02-06 17:06 | Comments(0)
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