生活工芸とオリーブの時代
増田寛也編著の「地方消滅」がおもいのほか早く読み終わったので、さらなる移動時間の暇つぶしのために酒井順子「オリーブの罠」という新書を購入。本年度から精華大学のファッションコースの演習で非常勤していることもあり一応の知識を得ておこうということで。著者は高校2年生から同雑誌に寄稿していたエッセイストで、1982年に平凡社によって創刊された雑誌「オリーブ」についてその時代背景とそのメッセージを記している。これが意外と明日の鞍田崇さんのトークイベント「生活工芸の時代と大見新村」について考えるうえでよいきっかけに。(以下かなり強引です。)
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読み進めるうちに、雑誌「オリーブ」のつくり出した価値観(当時の平凡社のつくりだしたライフスタイルと言っても良いかもしれない)が昨今の生活工芸ブームの生みの親として考えることができそうだということがわかってくる。くしくも雑誌「オリーブ」が月間化して最終的に廃刊になった2003年「暮らし系」雑誌の代表格とでもいうべき「ku;nel」がマガジンハウスから創刊されている。

・快適な生活のためのみだしなみ
オリーブの創刊号の表紙には「glooming」という文字が記されていたらしい。その意味は「快適な生活を送るための"みだしなみ"」。清潔で気持ちよく生活しなさいというメッセージが込められているのだという。さらに創刊当初の西海岸的趣向からフランス・女子高生路線への転向に際してうちだされた「リセエンヌ」=フランスの女子高生という概念には「与えられた条件と環境の中で、工夫をしながらおしゃれを楽しむ」ということが謳われている。ここではないどこかに憧れを抱くよりも、今ここの条件の中で自分なりの工夫で楽しく過ごす。それはそのまま「生活工芸の時代」のなかの一文として採用できそうだ。鞍田さんが生活工芸のポイントとして指摘している「生活や暮らしへの関心」、つまり「kunel」的な価値観そのままではなかろうか。


・実は社会派だったオリーブ
一方で「オリーブ」は、社会的な関心も高かったようだ。80年後半には原発についての記事すら掲載されているし、驚くべきことに読者の88%が新聞を呼んでいるというアンケート結果まであったという。生活工芸の中で語られるような「社会的コミットメントの関心」への萌芽を読み取ることもできそうだ。

現在ではどことなく「ガーリー」な女の子というイメージがある「オリーブ」であるが実際にはモテを意識した「かわいい」ことは目指されておらず、かわりに「おしゃれ」であることが重視された。おしゃれとは、異性にもてることではなく(モテ問題の排除)、自分のために、自分のための服を着よう、というものらしい。だれかの評価によるのではない、自分自身のスタイルをいかに獲得するのか(獲得せよ)というメッセージが創刊から通奏低音のように響いていた(らしい)。
90年頃から急激にナチュラル化していき、ku:nlに引き継がれていったのだろうか。

上記のように鞍田さんが提示する生活工芸のポイント「生活や暮らしへの関心」、「社会へのコミットメント(関わり)」については、かなりそのまま「オリーブ的」だといえそうだ。さらには「社会変化につながる行為へは二の足を踏む」というポイントについても興味深い指摘が上げられている。


・オリーブ(=生活工芸)=オタク
たとえば、オリーブ少女たちはリセエンヌでありながら「時間とお金に余裕のある(有名私学の)高校生」としてイメージされていた。メディアのメッセージとは裏腹に保守的な側面がみえてくる。また当時はヤンキーというよりはツッパリ的なるものがむしろメジャーな時代。オリーブ少女たちはこうしたダサい文化に馴染めない、一種の現実逃避として先としてオリーブ的な世界観を受容していた。それは先のモテ問題とも密接で一種のモテという現実的な競争からの逃避でもあった。現実の厳しさと対峙することよりも、自分の世界観を磨く。社会を変えることよりも自分が変われば世界も変わる。自分への満足が世界を変えることへの切実感を奪っていく。かなり強引であることを認めつつも、そこに社会的な現実の変化に二の足を踏む生活工芸の姿を重ねてしまう。さらに、自分の好きなものにかこまれた生活ということだけとりだせば完全にオタクではあるまいか。

余談だが「日本におけるマスは多少のダサさ、ヤンキーテイストが必要」(著者)なのは当時も今も変わらないようで、現在では生活工芸派が勃興するいっぽうでマイルドヤンキーの存在がクローズアップされているのもおもしろい。

ここまで、雑誌オリーブにみる生活工芸との関連についてみてきた。そこにはともに、生活と社会の双方が意識されているものの、それをつなぐ回路が存在していないというの問題が上げられている。鞍田さんはそれをつなぐものとして「生きる力」の再評価をあげている。私としては「生きる力」の重要性を否定するつもりはないが、議論すべきはそのような人間性を生み出し、持続させるための構造をどのように作っていくかこそ重要な論点ではないかと思われる。

・本質論、構造論、現象論
少し自分なりにこの問題を考えてみると、生活工芸には本質論(社会というよりもむしろめざすべき世界観といったもの)と現象論(暮らしのディテール)はあるが、それらをつなぐ構造論がないと理解できる。いいかえると社会という大きなスケールの話しと、人の振る舞いといった極小のスケールの話ししかなく、それらをつなぐ中間のスケール=それは建築的なスケールといってもよいが抜け落ちている。

ではヒューマニズムにおちいらず、構造論をつくりだしていくために考えなければならないのはむしろ人ならざるものたちもふくんだ「生態系」を明らかにしその中に自分を位置づけることではなかろうか。単に生活工芸的なモノを購入し身の回りに揃え、おしゃれになることではなく、地域だとか生産ということとの有機的な関係を取り結ぶための実践としての生活を構築していくことが、世界と暮らしをつなぐ。わたしが大見新村において考えたいとおもっていることもいうなればこの中間のスケールの構造をどのように考えられるかということなのだとおもう。

このあたり明日のトークの中でぜひ鞍田さんとお話してみたい。
明日18時からmediashopにて、、、
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by shinichi-log | 2015-01-17 01:05 | daily | Comments(0)
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