備忘録:アフター・アノニマスデザイン
昨日行なわれたアフター・アノニマスデザインで思ったことをつらりつらり。羽鳥さんの逃げ地図からの4つの考察「切実な要求ー一次情報にいかにふれるか」「現象の背後の関係性」「適合的な合理性」「衆愚におちいらない」、その後の水野さんによってしめされたプロダクト→サービス→システムというデザイン領域の変化、およびそれらが批評的にリンクし合うという話は個人的にも非常にしっくりくる話しだった。ここでいうサービス、システムというのは羽鳥さんなどがいうインフラに近い概念だと思うが、戦中戦後国土開発をベースに実施されたきたインフラなるものは道路やダムを中心とする土木的なものだった。そうした基盤のうえに都市が、そして建築がつくられてきたし、ゆえになかなか建築家はインフラへとアプローチできなかった。それらは国家によって管理されており、土木系の技師たちは戦前戦中を通じ、技術者運動等を展開することで徐々に官僚機構の中でその位置づけを深めてきた。一方で建築は、アノニマスな官僚制のなかで振る舞うよりも、個人の有名性に依存し生き残る道を選んだ感はいなめない。多くのクライアントが民間であった建築はそのようなアプローチが可能であったということもできる。
さて、現在ではインフラという概念は土木的なものから、



情報としてのインフラとコミュニティとしてのインフラへと変化しているのではないか。それらはそれぞれ民営化と地方分権という大きな流れの中で生み出されていると考えることができる。さてこの2つのインフラなるものは、モノとしてではなく目に見えない情報や繋がりというようなものとして存在している。こうした無形のインフラを身体化させるために端末=デバイスが必要になってくる。もちろんiphoneのようにそれはすぐれたプロダクトとして存在しているが、iphoneそれだけでは十分でなく情報インフラに接続することでiphoneは私たちの生活に不可欠なものとなっている。またUmaki Campもコミュニティというインフラを顕在化させるためのデバイス=場としての意義をもっている。こう考えると、現在は「インフラ」を身体化するためのデバイスがセットで必要になっており、水野さんのダイアグラムで言うところのプロダクトからシステムをつなぐ回路が可能になっているということではなかろうか。

いっぽうで、藤村さんが「事故」「リスク」「動員」というキーワードをあげて現在のデザイン性を語ることの可能性を述べておられた。事故によってはじめてデザインが顕在化するのが現在であるという岡田先生の問題提起を少々拡大解釈すると、UmakiCampや住民参加の公共施設マネジメントや、ワークショップで避難経路を考えることそのものが一種の「事故」として機能しているのではないだろうか。つまりこれらは人々に自律的に状況に参加するような状況をつくりだすことなのだが、それはいいかえるとそれまでは不可視で気にすることの無かった「リスク」にしっかりと向き合い続けるということに繋がる。極端な言い方だがもともと世の中というものは、何がどうなっているがアノニマスな官僚機構のつくりだす制度によって隠されている。そうすることで人は何もかんがえることなく日常性のなかに没入することができたはずだ。それはある種幸福な状況と言えるし、福祉的な国家、包摂的な国家とはこのように個人の苦しみ、葛藤を制度によって克服しようとするものだったのではないか。しかしそうしたリスクが隠蔽された幸福は「事故」によって何度ももろくもくずれさってきた。そのあとに残るのは自己決定論的な風潮を帯びた個人の自律性を根拠としたリスクの可視化と自己責任ではないか。ここで気になるのは、「事故=デザイン」によって自律的に振る舞わざるを恵那かうなる人々がその現実にたえきれずに「つかれてしまう」ということだ。藤村さんのいう「動員」も、いわばこの自律的な個人による集合をどのようにつくり出すかということではないかと思うのだが、そこに着いていけない人々への「ケア」をどうするのかが気にかかる。永遠の事故処理のなかで、またリスクとの向き合うことはそうとう疲れる。その時に考えなければならない包摂のプロセスをどう考えるのか。またシステムに関わるということは時間をデザインに内在させることでもあるので、疲れさせないようなケアによってサステナブルなインフラ整備をこころがけることが重要だろう。特に、デザインの主体が「強い」もしくは「当事者性」の低い(よそものとしての振る舞いをする人の)場合にあえて意識的になる必要があると思う。アノニマスから少しずれているかもしれないけれど、というかそれについて考えないといけないのだけれど、昨日の会を聞いていて感じたことは、このインフラの種類の変化とデバイスの関係であり、また「事故=デザイン」がうみだす様々なリスクに自律的に対応する主体への「ケア」の眼差しではないだろうか。



【追記】
最後にリアルアノニマスデザインについて。現在デザインというのが、プロダクトのレベルではなくサービスやシステムにまでおよんでいるということは、かならずしもプロダクト=作品のレベルにおいて顕名性を獲得することが重要なのではなく、その上の階層においてこそデザインの顕名性が獲得されることが重要になっており、リアルアノニマスデザインの目指す先はまさにそういうことなんだと思っている。そう考えた時に、disではなくて藤村さんはもう建築物を作らなくていいんじゃないだろうか。もちろんプロダクトからシステムまでを批評的に繋いでいくことの重要性はあるとおもうし、それはすごく興味深い。ただ、藤村さんが40代で作家(作品?)主義に戻るみたいなことを戦略として語られていたけれど、プロダクトの階層で作家主義を目指すのではなく、まさに匿名化する工業製品のなかに顕名性を与えた柳さんのように、匿名化する(官僚機構という)システムの中にデザインによって顕名性を獲得していくことで、建築における創造的であることの意味を更新してもらいたいと個人的に期待しているということなのです。
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by shinichi-log | 2014-02-11 01:13 | Lecture log | Comments(0)
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