マルセロ・エヴェリン「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」
KEX2演目。芸術センターで行なわれたマルセロ・エヴェリン「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」をみてきました。あやうく当日券が販売されないかもという人気ぶり。

さて、パフォーマンスの行なわれるセンターの講堂に入ると、腰の高さくらいにせっちされた正方形の枠が設置されている。そして「入ってもいいし」、「入らなくてもいい」ということが告げられる。観客は、ここにパフォーマンスを「観る」ために来ている訳で、より良く観ようとその中へと入っていく。舞台を見に来ている以上、観たくないと思っている人は基本的に存在しない。しかし一方で、いやむしろ「観る」ために、われわれ観客は自分が出来事の中へと巻き込まれることを恐怖する。安全な鑑賞者の位置から、出来事の中心へと、観られる対象へと変化してしまうことを恐れる。

その恐れは、実はこのパフォーマンスの初めからおこってしまっている。その枠の中を黒塗りのダンサーが絡まりながら移動し続けているのだが、開始直後から枠の中にいる人々の中におかまい無しに突っ込んでいく。そうして否応無しに観客は逃げようとするのだが、しかし一方でその恐怖の対象であるダンサー達こそが「観る」目的であるので、また近づいていく。近づかないと見えないし、近づくとよけないといけない。基本的にパフォーマンスの内容はその繰り返しである。そこには「観たい」という欲望と、「避けよう」とする恐れが生み出す場。

5人のダンサーは、あるプログラムを与えられた運動体のようなものではなかっただろうか?おそらく、お互いに離れずにひたすら内へ内へと向かうという行為だけをひたすら行なう。意思や表現などとはほど遠い、純粋な行為=運動=エネルギー。

それはダンサーの身体が漆黒の闇のように真っ黒だったこととも関係している。いうなれば彼らの存在はみえないものとしてある。パフォーマンスで重視される「身体」はなく、その行為が生み出すエネルギーだけが示される。事実その移動する中心から距離をとって眺めてみると、なにか中心にぽっかりと穴があいてしまったような、その空っぽの中心のまわりをひとがぐるぐる取り囲んでいるようにみえる。「黒山の人だかり」の中をまるで台風の目のように、空洞が移動している。もっともエネルギーが高いがゆえに、何も存在しない中心。そして蛍光灯が光を鈍く反射させスパークが発生する。

その時に少し引いて、もしくは枠の外にでることで実際に目にすることができるのは、その変容する磁場に反応して変化する観客のうごめき。そのうごめきは、個体差を持ちつつも、2つのパラメータのもと、つまり「欲望」と「恐れ」によって決定されている。

途中、ふいに5人のダンサーが分裂し、静かに場を徘徊しはじめる。エネルギーの中心が解体し、小さな極が複数出来ると、観客の動きは極端に少なくなる。みな周りを伺いながら大きく動くことをせず、状況を伺いながらそろりそろりと動いていく。非常にエネルギーの不活性な状況。

ようは、観客とダンサーという区別も、その反転も、観る観られるという演劇の根源的な関係性さえも破壊されて、パフォーマンスさせられているのは単純な心理的原理を抱き、右往左往する観客そのものであり、その結果ただ「場」そのものがいかに経ち現れるのかということ実験が、まさにこの枠の中がひとつの試験管として実施されている。

ふと、現代人の多くが普段おこなっている「遠巻きに観ている」というこの行為が、実は具体的な場の形をつくり出しているそのものであるということを感じずにはいられない。
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by shinichi-log | 2013-10-02 01:05 | review | Comments(0)
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