抽象的に話すことのこと
同志社大学で行なわれた田中功起さんと蔵屋美香さんによるベネチアビエンアーレの報告展。田中さんは青木淳さんの作品集に文章を書いていたり、また青木さんも田中さんのカタログに文章をよせているなど、00年以降のの建築の、特に他者性をめぐる、もしくはルールのオーバードライブ論と非常に親和性の高い作品を作っている人だなと個人的に思ってきた。正直今回のベネチアの「抽象的に話すこと」や、MOT ANNUALの作品など、蔵屋さんが述べていたように人と人の関係に焦点を当てた作品についてはよくしっていなかったが、それらも個人的な興味の対象と非常にシンクロする思考の流れを感じる事が出来て(たぶんに思い込みかもしれないが)大変有意義な時間だった。

実は今回の展示は昨年の建築ビエンナーレの展示をリサイクルして作られているらしい。そしてそこに明確に震災に向かう表現者としての距離感の違いが現れていたように感じたからだった。田中さんができるだけ遠まわりすることを選んだと語っているように、震災への直接的な言及は少ない。一方、伊東さんが若手建築家とともに行なった展示では、どれだけ当事者へと近づけるかが問題とされていたように思われる。しかしながらそこで示されていたのは、いうなれば若手建築家による協同的なコレクティブな行為であって、被災地の人々のそれではなかったのではないか。がゆえに、新しい建築へのアプローチが明確に示されていたが故の受賞だった。住民へのアプローチではなく、建築へのそれとして。そうした距離感が、昨年の展示に上書きされるカタチで今年の展示が行なわれた事でむしろ強調されていたようにも思われる。

田中さんは、具体的な事があつまって、見通しが曖昧になっている状態をそのまま表現として提示できないか、ということを抽象として考えたいと話されていたが、それは具体性と抽象性という二項対立的な図式を越えて、両者が「なめらかに」つながっている中で形成される状態を提示したいという事だったんじゃないかと思う。つまり関係性そのものを複雑なまま表現するにはどうすればいいのかという問題へとつながるような。そのために、単純な状況の設定、特に根拠がなく、全員が等しくルールに則るということは、ちょうどハイエクが、理性的な秩序でも、自然の秩序でもない、人々の振る舞いの結果として結果的に生まれてくる秩序を自生的秩序呼んでいるが、その形成のためには、非人称的でであるがゆえに平等なルールの設定(ルールの結果を消して知っていては行けないような)が重要であるというような話しをしている。

田中さんが所属するギャラリーの隣に事務所を構えている建築家の長坂常さんのつくり出す空間のありかたも「非人称的な行為」にあるのではないかと考えられる。つまり長坂さんの表現というのは、何かのイメージの付与や、テクスチャーを与える事ではなくて、ある素材、空間にたいして行なった行為そのものによっていると考えられる、と思っているのでこの繋がりは非常に興味深いなと思う。青木→中山英之ではなく青木→長坂常という読み方もできてくる。
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by shinichi-log | 2013-07-29 17:25 | daily | Comments(0)
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