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現代の抽象性と建築/美術における作品性についてのメモ
12/14の「アブストラと12人の芸術家」という展覧会の関連企画のトークイベントに呼んでもらった時に考えた事や感想についてめちゃくちゃ乱文ですが忘れないうちに書いておきました。ちなみにこの展覧会の会場構成を担当した建築家の高濱さんとアーティストの金氏さんにインタビューした記事はこちらに公開しています。
http://www.dezain.net/2012/22849

1、抽象とは何か?
まずは辞書的な意味を拾っていくと「抽象(abstract)=特徴的な要素に変換」するという事になっている。
一方でアブストラと似た言葉としての「概念(concept)=ものの意味を変えずに言語に置換」ということらしい。
また抽象という事の対概念としては、具象(representation)や具体(concreat)が考えられる。

抽象という言葉は、1908年にヴォーリンガーが「抽象と感情移入」を著し芸術的よくの一つとして抽象衝動を提示し、つづいて1912年にカンディンスキーが「芸術に置ける精神的なもの」で内的必然性へと向かう力としての抽象について述べている。こうして近代において抽象が際立ったトッピックになった背景には、一つは主に西洋において古典からつづく自然をいかに表象=representateするかという問題からの開放という側面を、抽象ということが担ったということもできる。さらに、批評家のグリーンバーグは、抽象は、物語的かつ再現的な「内容」と対置されるとし、絵画の二次元的な平面性においてのみ成立するような視覚的イリュージョンの抽象性を強調していた。こうして抽象表現主義に始まる

建築において抽象的という事は、往々にして建築が現実感のない素材感を消した図形のようであることを意味する。たとえば美術館のホワイトキューブのように真っ白な空間。さらにいえば、白い箱というだけでなく、リートフェルトの住宅や、コルビジェの住宅などのように、実際は石や木やコンクリートやレンガでできているにもかかわらず、建築の各部位が幾何学的なエレメントに変換されているものを指す。たとえばミースにとって明快な構造とは、ものの成り立ちが明示的であるということであり、それは建築の抽象性において非常に重要とされていた。
また、光がその表現の中に印象的に取り込まれている場合もそこに抽象性が見いだされる事がある。この場合は光の効果によって素材が非物質的な状態、現象的なものへと変化している様が抽象性を演出している。

2、ミニマリズムにおける抽象性
建築における抽象性について考える前に、建築とアートの違いと問いに最も示唆的な一連のミニマルアートついて考えてみる。ミニマルアートは「先行する抽象表現主義を批判的に継承しつつ、抽象美術の純粋性を徹底的に突き詰めた」といわれており、純粋な幾何学形態を用い、具象的な意味を徹底して排した作品が特徴的である。抽象表現が個人の内面の表出を非具象的に描くのにたいし、ミニマルアートにおいてはその内面の表出すら排除の対象とされている。こうして作られる超-抽象という作品は、しかしながら作者の内面にではなく、それを観るものとの間に意味を作り出していく。つまり作品の自律性が消滅し、作品と観者をふくみこんだ状況全体がつくりだされることになる。このことをマイケル・フリードは客体性とよんだが、この客体性こそ、建築の作品性との接続を考える上で重要になってくる。もっともミニマルアートがこの後インスタレーションへと展開し、現在におけるアートの主流な形式となっており、建築家も美術館などで積極的にインスタレーションを採用しているということへの考察も必要になってくるようにおもわれる。もう一方で、ミニマルアートと同時代的に展開したランドアートにおける作品のありかたも、それがサイトスペシフィックである点において建築への接続も考えられる。だがこちらは単にサイトスペシフィックかどうかではなく、そのサイトスペシフィックがどのように美術館の中で作品として存在しえたかを考える方がより有意義な議論が可能になってくるように思われる、が別の機会に。さらにいうと、建築とミニマルアートの接点は、ロシア構成主義の作品の中にすでに組み込まれていたと考える事もできるが、これもここでは省略する。
ともかく、ミニマルアートにおいては抽象性をつきつめることで、結果観者をも含み込んだ関係性の中で作品というものが成立するようになる。そしてこの観者を含み込んだ経験ということはそのまま建築における重要な議論を内包しているのではないだろうか?


3、建築における現代の抽象性
現代において、様々な発見や進歩によって、自然の振る舞いすらも解析可能になり、その成り立ちが明示的に示されるようになってきた。近代においてはそうした雑多で複雑なものを幾何学という要素に還元する事でその成り立ちを示す事が試みられていたのだとすれば、現代においてはそうした幾何学に還元するのとは異なったもう少し自然を自然のままに描くような抽象性が求められているのかもしれない。それは物理的特性ではなく、現象的特性についての再現とみることもできるかもしれないが、どちらにしろ抽象ということの意味が単に要素が少ないということではなく、雑多なものを雑多なまま変換するということによって生まれてくるのかもしれない。
また一方で、近代の機能主義を乗り越えて行かなければならない私たちは、建築の自律性ではなく、ミニマルアートにおいて示されていたような客体性をどのように建築が体現するかを考えてもみたい。そうした試みはすでに00年代において盛んに行なわれていた。その先方は青木淳であり、SANAAであり、さかのぼれば篠原一男の代々木上原の住宅などの作品へと繋がっていく。現代における抽象性とは逆説的ではあるが、そうした時々に生じる状況全体のことを意味すると考えられないか。そしてなにか自律性を建築はもとめるのではなく、そうした客体的な特性にこそ建築の作品性を見いだすべきだと思う。
by shinichi-log | 2012-12-24 17:16
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