QC3のナデガタインスタントパーティへのインタビューにあたって
QC3では9回目としてアートユニットであるNadegata Instant Partyへインタビューを行なっている。Nadegata Instant Partyとは2年前偶然メンバーの山城君に京都で出会った事に単を発する。同世代の彼とはなんだか初対面じゃないような親しみを感じていた(彼のコミュニケーション能力がそもそも高いだけかもしれない)が、それ以降ナデガタの名前は時々耳にすることはあれど、絶妙にすれ違いを重ねていた(共通の知り合いは多いらしい)。昨年QC3をタウンとアーキテクトというテーマで行なうようなり、彼らの「ど真ん中センター」という洋裁学校を期間限定の公民館として運営するというプロジェクトを知って一度話しを聞きたいなと思っていたが、随分と会っていないし覚えてないかななどと弱気な感じでコンタクトとらずにながく放置していた。機が熟すとはよく言ったもので、意を決して山城君にメールを送ってみたが、その同じ日に全く偶然的に同じナデガタメンバーの中崎さんと電話で話すという事があっり、その絶妙のタイミングにかなり驚いた。

さて、Nadegata Instant Partyとはかなり変わった名前である。Instant Partyのほうは「即席の集まり」とうような意味で、もしくは即席のパーティーでもいいがイメージできるが、なぜNadegataか。特に深い意味は無いようで、ひょんな事からユニットを組むようになった3人に共通する人当たりのよさみたいなものを体現しているらしい。結成当時のいきさつなどはインタビュー本文を読んでもらえれば分かると思うので割愛する。

さて、今回なぜ彼らにQCとしてインタビューしたいと思ったのか。その最初のきっかけは先ほど書いた「ど真ん中センター」というプロジェクトを知ってのことだったが、その上で彼らがコミュニティ活性化や地域おこしということの成り立ちを意識的に利用しながら作品をつくっているのではと感じたからだ。近年全国で様々な主体が種々多様な地域活性化やコミュニティデザインの取り組みを行っているけれど、その成果の可否や、倫理的側面(如何によい事をしているか)、その社会的意義、取り組みの中でのエピソードが取り上げられる事はあるが、ナデガタはいうなればそれらをメタにとらえて、そこで起っている出来事の構造自体を作品化しているのではと思ったからだ。

彼らは、様々なシチュエーションでユーモアと愛にあふれる「口実」をつくりだすことで、その場の人々をある出来事に巻き込んでいく。たとえば、天井からぶら下がっているバナナを取る、そのために床をあげてしまうなど。なぜバナナを取るのかとか、他にももっといい方法があるということは問題ではない。その目的を口実に一定の期間、ある場所で、様々な人がその口実のもと恊働してしまうことが重要なわけである。でもそれがとても楽しい。関わってしまった人たちは根拠がよくわからなくともその目的に向かって突き進む。それは騙しているとかそういうことではなく、それで上手く回ってしまうという事が重要なのではないか。もしかしたら実は世の中もそのような「口実」によってつくられている事で上手く回っているのだと考える事ができるかもしれない。


個人的にナデガタの作品は、「神話」や「言い伝え」のそれに似ているのではないかと感じている。あまり信心深い方ではないのであまりそうした類いの話しを信じている訳ではないが、例えば地域のお祭りなどは「神話」や「言い伝え」を口実に実施されることで共同体の絆を強め、コミュニティを維持させる役割を担っている。もしかしたら昔はちゃんと目的や意味を担っていたかもしれないが、その多くは現代においては失効している。いうなれば、「神話」や「言い伝え」の真偽や正当性よりも、それを口実とした出来事のほうが重要なものとなっている。よく行政や修行施設が実施するお祭りやイベントは、往々にして明確な目的や目標(賑わい創出、売り上げアップなどなど)のもとに人が集められ賑やかさを作り出している。手段と目的という垂直的な関係は、時に恩着せがましさや窮屈さそれにともなう白々しい感じを生み出してしまうのではないか。だからそうしたイベントは持続性が無い。常に存在自体の根拠が問われる。それに対して、口実化された目的のもとに行われる出来事は、その根拠がとわれること無く存在している。というかその設問自体がナンセンスなのだ。そもそもコミュニティの存在の根拠を問うということ自体がナンセンスな設問なのではないだろうか。既にそこにあるものであるはずなのだから。


しかしながら現在ではその存在の根拠を必要とする場面が多く存在するようになった。地縁や血縁、言い伝えなどの伝統を共有する事の無い「郊外」や都心のタワーマンションなどでは、その内部で新たにコミュニティを生み出す事が必要になってくる。そこで求められているのは、合理的で根拠があきらかで、明白な目的をもったイベントではなく、もしかしたら根拠も目的も明確ではないが、人々を根拠無しに巻き込むだけの力を持った「口実」なのかもしれない。そうした、地域の中でのコミュニティを立ち上げようとする上でのエッセンスをナデガタの作品から見て取れるかもしれない。


もう一点、彼らの活動に注目した理由がある。それはインタビューのタイトルにもなっているように、「いかに出来事を作品化するか」という点だ。彼らはあくまでアーティストとしてプロジェクトを「作品」として残す事を考えている。けれどもこれがかなり難しい。出来事はある場所と時間をもった「ライブ」なものであるから、それをそのまま展覧会として見せることはできない。それは必然的に「アーカイブ」という形をとってしまう。QCでも何名かの建築家の方を取り上げているが、彼らの地域での活動はこれまでの建築作品のフォーマットの域を超えており、そうした出来事としてのモノをどのように作品として、社会に向けてプレゼンテーションしていくのか、という問題に直結すると思っている。いうなれば、作品という概念に時間軸が入ってきた時に、そのプロセスそのものを提示する事が可能か、不可能であればどうするのかということを考えないと行けない。さらに言えば、すでに建築というメディアが、展示という困難さを含み込んでいる。なぜなら建築の経験はあくまでもその場に身を置くというライブなものでしかありえないとされているが、展示においてそのライブ性は失われてしまい「アーカイブ」を展示するよりほかないからである。それに対してインスタレーションや1/1と言われる建築作品が試みられることがあるのだけれど。とはいえそれらも含め何を作品として展示できるのだろうか、という問いは常にある。個人的に今後建築が文化的なものとして社会的に認知されていくためには、美術という制度の積極的な利用をすべきだ思うのだ、インタビューのなかでも答えてもらっているようにランドアート以降のコンセプチャルアートからインスタレーションにいたる作品化の理論を学ぶ事はひとつ重要ではないかと感じている。という事だけでなく、もっと幅広くナデガタが出来事を作品化する上で考えている事は、建築家の活動のフィールドが広がった時に、では「なに」を「どう」作品と名付けるのか?という問いに対するよきヒントになるのではないか。


上記は個人的なナデガタの作品にたいする興味と関心のあり方で、インタビューではもっと幅広く語ってもらっている。ぜひ一読下さい。

http://qc-3.blogspot.jp/
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by shinichi-log | 2012-06-15 22:32 | daily | Comments(0)
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