アイロニストな建築家の自由(メモ)
長坂常さんのレクチャーと行き帰りの電車の中で読んでいた一般意思2.0、13章がおもしろいくらいにつながって読めてしまったので、その事を少しメモ(以下は思いつきのレベルをでない上に、文章も支離滅裂だ。関連付けに根拠もないし、説明も十分でないです。その辺りご了承ください。)

さて、一般意思2.0の中で東博樹はアメリカのプラグマティズムの哲学者ローティによるアイロニスト(アイロニーを実践する人)の定義を紹介している。

「自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物」(ローティ)

これがローティによる定義なのだが、ここでいう偶然性とは「たまたま」という感覚を指している。ゆえにそれは東の記述によると、「あることの普遍性を信じながら、同時にそのものが特殊である事も認める」人ということになる。この「2つの矛盾する主張を同時に信じる」ことに如何に耐えるのか。

さて、これがどのように長坂さんの話しに繋がるのか。話しの中で「これでいいいのだ」という価値観を大切にしたいという長坂さんの言葉があったのだが、これはつまり「これがいい」というカント的な主観に根ざした絶対的な価値観によってモノをつくるのではなく、「これでいい」という態度によって、その事自体は確かだけれども当時にそこに外部としての他者を受け入れることを許容する
という意味において非常にアイロニカルといえるのではないか?
建築家は、引き渡しという時間的な切断を行なわなければならない故に、その時点での完成形を目指して建築をつくる。しかしながら、それはひとつの完成形ではあるものの、同時に他の完成形の姿を許容する建築のあり方。

もう一点、この章の最後に自由について議論が紹介されている。
自由とは、主体の意識的な行為を何事も妨げられないということを意味する。自由を信奉する人の事をリベラルとした上で、ローティはリベラルであるという事を「理念を必要としない、身体的な反応(=無意識)を意味する言葉としてとらえ返し」ていると東は述べている。
長坂さんのスライドもまた自由になりたいということから始まっていた。自由とは何であろうか?自由を獲得するためにはどうすればいいのか。自分の意識を先鋭化させて何ものにもとらわれず自分の表現を突き詰める事が一般的には自由であると考えられているが、長坂さんの場合はそうではない。そのような行為は逆に多様である事、自分以外の何かを受け入れる事の可能性を取り除いてしまっていると考えているようだ。では、自由はどのように獲得されているのか?ここで長坂さんがきわめて限定的な行為「とる」「削る」「切る」「流し込む」によってデザインを行なっている事を思い出したい。単純な行為=操作。それは先の言葉で言うと「身体的な反応=無意識」を呼び起こすためのきっかけではあるまいか。ローティの自由の概念が一般的なものと異なっているのと同様に、長坂さんの自由も、これまで建築家や芸術家が目指してきた自由と実は正反対のものとして構想されているのかもしれない。

この自由を巡る態度は先のアイロニーの議論と繋がってくる。アイロニストである長坂さんは操作の限定性(=何でもできるではない)によって、最大限の自由を建築の中に生み出せるのではないかと信じている、そう考えれなくはないだろうか。。
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by shinichi-log | 2011-12-07 12:23 | Lecture log | Comments(0)
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