レッテルについておもったこと
レッテルについて

少し前(といっても先週だからついこの前)からtwitter上で少し話題になっていたレガシー問題というのがあるのだけれど、その議論を読んでいて個人的に気になったのは「レッテル」という問題。あまり貼られて嬉しくないアレである。レッテルは貼る人と貼られる人がいる訳だが、双方の言い分としては、
貼る人「それがどういうものかはっきりさせる事で議論の対立軸がわかりやすくなる。」貼られる人「単純化してなざすことで思考停止されてしまう」

ではこのやっかいなレッテルについてどう対処すればよいのだろうか?
個人的にはレッテルを貼ると言う行為は極力しないように行動したいと思っているが、知らず知らずのうちに貼ってしまうものであることも忘れてはいけない。

むしろ、貼られる側になったときにどのような反応があるのか。まずおそらく多くの人はそもそもレッテルを貼られて、不利な立場に追い込まれるという状況自体を回避しようとすると思う。極力ニュートラルに、波風をたてず、たてたとしてもそれは無印なものをめざす。だれからもレッテルを貼られず、嫌な想いをせずにすむ。

一方で、レッテルを貼られまくる事でよくわからないとなる事もある。
たとえばmacにステッカーを貼っている人がいる。例えば萌えシールが貼ってある。そうすると多くの人は「こいつはおたくだな」と思う。だけどその横にPieceと書いた丸文字のステッカーがあり、さらにはドクロのステッカーもあればもうその人がオタクかどうかなんか分からなくなっていく。その人は、オタクでもあり、ヒッピーでもあり、ちょっと怖い人、、、、でもある。そうして複数のレッテルを貼られる事で逆に「レッテル」そのものを無意味化してしまう。「私は生まれなしている」(スーザン・ソンダク)のだし、不思議ではない。

現在、多くの人はレッテルを貼られないようにそーっと生きている。たぶん極端に政治的なものを嫌う(特に政党がらみ)というのもあの人は右翼だ左翼だとレッテルを貼られるがただただいやなのだろう。その気持ちはとてもよく分かる。ただ、そのように何一つレッテルを貼らなかったとしても、macにはリンゴのマークがついているように、自らが自らにつけたレッテル(無印な自分)によって縛られてしまっていることだってあるんじゃないか。

となると、どのようなレッテルが明日は貼られるのかということを楽しんでみるのはどうだろうか?

と自戒を込めつつ、とあるツイッターでの出来事について思った事でした。


今日は、openlab.がありました。近藤さんによるアメリカの訪問報告。水野さんもきてくださって議論も盛り上がりました。これはまた後日。。。
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by shinichi-log | 2011-02-28 03:27 | daily | Comments(0)
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